キリストへの時間 2024年2月18日(日)放送  キリストへの時間宛のメールはこちらのフォームから送信ください

久保浩文(松山教会牧師)

久保浩文(松山教会牧師)

メッセージ: 神の力は弱さの中で働く

【高知放送】
     

【南海放送】
     

 おはようございます。愛媛県松山市にある松山教会の久保浩文です。
 2月の第3日曜日の朝です。今朝のお目覚めはいかがでしょうか。

 昨年の11月の末に、私は人生で初めての経験をしました。ふとしたことから、教会の1階の入り口で転倒しました。その時は、右足首を強く捻った感じがありました。その日は、朝から外出しなければいけない予定が入っており、右足に違和感を覚えながらも車を運転し、用事を済ませてから、たかが捻挫くらいだろうという軽い気持ちで整形外科を受診しました。

 診察した医師から、「折れています。直ぐにレントゲンを撮ります。」と言われて驚きました。私はこれまで、慢性的な胃腸の病気や、交通事故による打撲は経験しましたが、骨折は経験したことがありませんでした。医師から、「入院して手術をするか、ギプスを入れるかどちらかです。」と選択を迫られました。すぐさま、週の後半や次週の出張予定が頭をよぎりました。そして私は、「ギプスにして下さい」とお願いしました。暫くして、右足首に取り外しの出来るギプスをはめられ、包帯をぐるぐる巻きにされました。「1週間後にレントゲンを撮りますから来てください。」と言われて、痛み止めの薬を処方されて帰りました。

 家族は、朝自宅を出た時の姿と異なる私の姿に、一瞬言葉を失っていました。早速、これまでとは異なる生活スタイルに切り替えなければいけなくなりました。今まで自由に動き回っていた家の中でさえ、行動範囲が制限され、外出時は必ず杖を使用することになりました。普段であれば、自転車で5分足らずの教会まで、左手に杖を持ち、階段のある地下道を避け、横断歩道のある道を通って、いつもの3倍の時間をかけてようやくたどり着きました。

 志賀直哉の作品に、「城の崎にて」という短編があります。志賀直哉が、山手線の電車に蹴飛ばされて怪我をし、その後養生に、但馬の城崎温泉に逗留した時の随想です。彼は、滞在中のある時、散歩に出た折に、小川で見つけたイモリを驚かせるつもりで、小さな石を投げました。軽い気持ちで投げたその石が偶然にも当たって、イモリは死んでしまったのです。彼は、「可哀想に想うと同時に、生き物の淋しさを一緒に感じた。自分は偶然に死ななかった。井守は偶然に死んだ。…そして死ななかった自分は今こうして歩いている。そう思った。自分はそれに対し、感謝しなければ済まぬような気もした。」と記しています。

 今回、私自身の身に起こった一瞬の出来事を振り返ってみて、改めて「主なる神の御手の内で生じたことであり、神の隠された御計画があるのだ。周囲には、思いがけない出来事によって、もっと大変な怪我をされたり、亡くなられる方もいる中で、不自由はしながらも生かされていることに感謝しなければ」という思いになりました。家では、妻や娘の手を借りながら生活をし、今まで、あまり気に留めることのなかったことに目が行くようになりました。

 乗り物に乗っても、通路を譲って下さる方がいたり、タクシーの運転手さんが手荷物をトランクに出し入れして下さったりと、些細なことに感謝を覚えるようになりました。これまで牧師として、病気や怪我をされた方の見舞いや訪問をしてきましたが、果たしてこれまでの訪問が、そういった方々の慰め、励ましになっていただろうか、と反省の気持ちが沸き上がりました。これからの働きに襟を正された感がします。

 聖書には、持病や弱さをもった伝道者パウロが、肉体のとげを取り去って下さるようにと、主なる神に祈ったという記事があります。しかし、主はパウロに、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(2コリント12:9)と言われました。パウロは、「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。…わたしは弱いときにこそ強いからです。」(2コリント12:9-10)と語っています。

 神さまは、生きて働いておられ、私たちがどのような状況のなかにあっても、絶えず目を注いで下さり、時宜に適った恵み、力、助けを与えて下さるお方です。パウロは、主の力によって生かされていることを喜びとしたのです。私たちも、パウロに倣う者となりたいと思います。



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