回復された祭司としての私たち | エゼキエル書 44章

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エゼキエル書 44章

イスラエルの子らが迷って、わたしから離れたとき、わたしの聖所の務めを守ったレビ人の祭司であるツァドクの子孫は、わたしに近づき仕えることができる。…彼らはわたしの聖所に入ることができる。日本聖書協会『聖書 新共同訳』 エゼキエル書 44章15節~16節

回復された祭司としての私たち

プロテスタント教会の大切な考え方の一つに「万人祭司」があります。神の御前に聖職者と世俗の者の区別はなく、皆等しく神に近づき、神に仕えるということです。

この44章では、祭司とレビ人の違いが示されています。神の民イスラエルが迷ったとき、聖と俗の区別を示せるか、それとも一緒になって迷ってしまうか、の違いです。迷ったレビ人は断罪され(10節)、迷うことなく聖と俗の区別を示せる人が祭司とされました(23節)。そうすると、キリストによって救われた信徒一人ひとりが本来、祭司として聖と俗の区別ができるということでしょう。

教会の世俗化は大きな問題ですが、まずは私たち一人ひとりが、何が神の聖なる言葉・御心であるか、何が自分の俗なる言葉や思いであるかを区別できることが大切です。「あなたがた自身も生きた石として用いられ、…聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい」(1ペト2章5節)。聖なる祭司である私たちが真実に霊的に生きることによって初めて、教会は霊的な家とされるのです。

赤石 純也(伊丹教会)