しるしとなるべき人々 | ゼカリヤ書 3章

RCJメディアミニストリー「ふくいんのなみ」のトップページへ戻る

ゼカリヤ書 3章

「大祭司ヨシュアよ
あなたの前に座す同僚たちと共に聞け。
あなたたちはしるしとなるべき人々である。」日本聖書協会『聖書 新共同訳』 ゼカリヤ書 3章8節

しるしとなるべき人々

「私たちの教会の先生はいい先生なんだけれど、もう少しこうあってほしい、もう少しあぁあってほしい…」。これは、誰の心にも浮かびうる声なのではないかと思います。もちろん牧師は、少しでも主に喜ばれる働きができるように、自らをよりよく整え、自らの成長のために日々祈らなければならないでしょう。

けれども一方で、もし私たちが教会でいつも牧師に目を向け、いつも牧師に心を向けていくようになったらどうなるでしょう。その時、教会は希望を失い、力を失っていくでしょう。いつの時代にも牧師自身に希望が存在するのではなく、力が存在するのでもないからです。

では、私たちの永遠の希望はどこにあるのでしょう。それはいつの時代にも主の内にあるのです。私たちの力の源はどこにあるのでしょう。それはいつの時代にも主の内にあるのです。教会の牧師は弱く、力ないかもしれない。その賜物に不足があるかもしれない。けれども、教会を牧しておられる主には永遠に尽きることのない御力と、恵みが満ち溢れているのです。

山村 貴司(青葉台キリスト教会)