2000年11月13日(月)「人生の歩みを照らす灯」

湖北台教会長老 木村庸五

 お元気ですか。千葉県我孫子市にある湖北台教会の木村庸五です。
 私は弁護士です。いろいろな法律的な問題について相談を受けるのが仕事です。
 人生の途上では、面倒な法律的問題に出会って、一度や二度は弁護士に相談することがあるかもしれません。犯罪を犯してしまったたりあるいは犯罪の被害にあったり、財産のことや契約や事故のことなどで相談することもあるでしょう。
 法律的な問題ならばその道の専門家に相談してふさわしい方法で解決することができるでしょう。
 しかし、人生には法律では解決ができない問題がたくさんあります。
 この世にはそもそもなぜ不正があり不公平があり争いがあるのでしょうか。人生にはなぜ苦しみがあるのでしょうか。わたしは何を目的にどう生きればよいのでしょうか。これらは永遠の問いかけです。
 神様の御言葉である聖書は、人生のこのような大切な問題に真正面から取り組んでいて、昔から多くの人にみちしるべを提供してきました。聖書は、神様のご計画について、宇宙について、世界と歴史の意味について、正義、公平とは何か、平和とは何か、苦しみの意味について、救いについて教えています。教会では礼拝の説教で聖書の御言葉の解説を聞くことが出来ます。
 あなたもこの聖書のゆたかな内容に触れてみて下さい。
 きょうのみ言葉……「あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯」(詩編119編105節)

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2000年11月14日(火)「信仰の成長」

湖北台教会長老 木村庸五

 ご機嫌いかがですか。千葉県我孫子市にある湖北台教会の木村庸五です。
 私は、16才でキリスト教を信じるようになって40年以上クリスチャンとしての人生を歩んできました。
 でもこの40年の歩みは、私にとっては、神様の前に自分の至らなさを日々より深く知る歩みであったように思います。
 よく、周りの人に「毎週教会に行ってえらいですね。」とか、「クリスチャンならこういうことはしないでしょうね」とか言われることがあります。
 これは、クリスチャンになると何か違う人間になる、あるいはそうなることが要求されているという見方があるからだと思います。実はそれは全ての人間に求められていることなのです。クリスチャンになると神様との関係が変わり生き方の姿勢が変わることは確かですが、実際は何か特別な人間に変わるわけではありません。
 神様の前に立たされてありのままの自分を見つめるようにされると、以前より自分のみにくさや至らないところ、人間の本当の姿がより明らかにされ、自覚するようになります。神様の憐れみによるほかに救いのない人間のありのままの姿というものを知らされます。イエスキリストによってのみ救いを得ることができる人間の姿は、クリスチャンだけでなく、実はすべての人間のほんとうの姿なのです。
 自分が立派になっていくのではありません。神様の圧倒的な力と、豊かなあわれみに出会い、聖書の光に照らし出されて、心の中まであらわにされるのです。その結果、いつの間にか、頼るに足りない自分にはこだわらなくなり、神様にのみ信頼するように変えられていきます。
 きょうのみ言葉……「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」(エフェソの信徒への手紙2章7節)

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2000年11月15日(水)「罪の身代わり」

湖北台教会長老 木村庸五

 お元気ですか。千葉県我孫子市にある湖北台教会の木村庸五です。
 聖書では、すべての人間には救いがたい罪があることが明らかにされています。罪とは神様に背くことです。神様に背いていることは、聖書によってはっきりと知らされます。神様はそむく罪人を嫌って、罰を与えます。
 しかしまことの救い主イエス・キリストは、地上での苦しみの生涯をささげ、十字架の上で神様の怒りと罰を私たちの身代わりとなって受け、私たちを救って下さいました。
 ある人がほかの人のために犠牲になって死ぬという出来事はそれ自体で私たちに大きな感動を与えます。しかし、聖書は、なんと、神の唯一の子イエス・キリストが身代わりになって、十字架にかけられ、血を流して死なれたおかげで、わたしたちの罪が赦され、私たちが救われたのだと教えています。有り難い、しかも不思議な真理です。私たちは、この事実に深く感動します。
 旧約聖書のイザヤ書の53章5節、6節には、イエスキリストの身代わりの死を預言して次のように書かれています。「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり彼が打ち砕かれたのはわたしたちのとがのためであった。彼の受けた懲らしめによって私たちに平和が与えられ彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪を全て主は彼に負わせられた。」
 身代わりの死による罪の赦しと救いという不思議な出来事のうちに、人生の最も重要な真理が含まれています。

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2000年11月17日(金)

「重荷を負うている者はわたしのもとに来なさい」

湖北台教会長老 木村庸五

 ご機嫌いかがですか。千葉県我孫子市にある湖北台教会の木村庸五です。
 私は弁護士をしていますが、弁護士のところには、いろいろな法律的な問題を抱えている人が相談に来ます。
 話を聞いてみると、「もっと早く来ればもっと簡単に問題を解決できたのに、なぜもっと早く専門家に相談しないで、自分で抱え込んでいたんだろう。」と思うこともあります。本人は、自分で解決できると思っていろいろと工夫したのでしょうが、それがかえって結果的には法律的に自分を不利にするようなことになっていることもあります。専門家を信頼して適切な措置をとってもらっていれば、こんな面倒なことにならなかったのに。。。。と思うことがあります。
 人生の根本的問題について思い悩むとき、相談する相手をさがすのは結構難しいものです。だれかに相談しても、法律問題のように解決方法がはっきりしていないことも多く、聞かれた方も分からないことが多いでしょう。だからといっていつまでも自分で抱え込んでしまって、自分で解決できないまま、ますます深みにはまってしまっては大変です。
 時代を超え、場所を超えて世界中で最も読まれ、人々の支えとなってきた聖書、そして聖書によって立てられたまことの教会に解決を求めることをお薦めします。聖書は、神様の御言葉で、実に豊かな書物です。いろいろな問題について根本的な解決と心の安らぎを必ず与えてくれるでしょう。ラジオをお聞きのあなたも聖書を読み、教会へ行きましょう。
 きょうのみ言葉……「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイによる福音書 11章28節)

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2000年11月18日(土)「祈り」

湖北台教会長老 木村庸五

 お元気ですか。千葉県我孫子市にある湖北台教会の木村庸五です。
 聖書のマタイによる福音書第7章7節、8節に「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」という有名なみことばがあります。
 神様は、私たちに向けて、聖書のみことばと聖霊を送り、私たちに親しく話しかけて下さっています。私たちはこれに耳を傾け、これを受け入れ、そして神様に向かって、ありがとうと感謝し、ほめたたえて賛美し、うれしさと喜びを言い表し、また問題のある自分をありのまま告白し、願いごとをし、助けを求めることができます。
 聖書では、このように神様に語りかけることを「祈り」と言います。私たちは、祈りをささげ、困ったことを伝え、神様ご自身に親身になって聞いていただき、助けを求めることができます。祈りはいつでもどこでもすることができます。
 私たちは息をすることによって酸素を補給し、命を保っています。魂を生かすためには、私たちは、祈り、神様に話しかけることが必要です。神様はこれに答えて、魂を養う聖書のみことばや聖霊を与え、また願いを実現して下さるのです。祈りは魂にはなくてはならないものです。祈りがなければ魂は死んだ状態から立ち直れません。
 祈りましょう。
 「天の神様。あなたのみ言葉である聖書を与えて下さり、ありがとうございます。どうか聖書の教えを受け入れ守ることが出来ますよう神様の力をお与え下さい。どうかいつも神様に祈りをささげることができるようにしてください。イエスキリストのお名前によりお祈り致します。アーメン」

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