2005年11月22日(火)「キリストに密着して」

 ご機嫌いかがですか。安田恵嗣です。

 教会にはこれが欠けてしまったならば命を失ってしまうものがあります。それは「キリストに密着する」ということです。

 キリストに密着するということは、キリストの命にあずかることです。それはキリストに甘えることではありません。言葉だけでイエスさま、天の父なる神さまと呼べば済むということではありません。

 イエスさまに密着するためには、その妨げになっています自分に密着してきた物を振り落とさなければなりません。それがどんなに自分が愛している者、つまり、父、母、子であろうが、キリストへの密着を妨げているものは、一度振り切らなければなりません。イエス・キリストのものとなるためにしなければならないのです。

わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。・・・あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。

ルカによる福音書12章49節から52節の御言葉です。この御言葉は響きのよい、私たちの誰もが愛することのできる言葉ではありません。しかし、主イエス・キリストの御言葉です。主の投ずる火は、燃え続けています。しかし、その火は、不思議なことに、出エジプト記においてモーセを神さまが召された時に、柴が火に燃えているのを見ながら、柴が燃え尽きることなく燃えているのと同じです。私たちを殺す火ではなくて、まことに生かす火なのです。