2006年3月29日(水)「命の営みの背後に」

 いかがお過ごしですか。新所沢教会の長石です。

 近頃、スーパーの食品売り場には、季節感のない野菜や果物が所狭しと並べられています。私たち消費者にとっては、値段さえ気にしなければ、欲しいものは何でも手に入るわけですから、ありがたいものです。その陰で、生産者である農家の手間は大変なものです。ボイラーを焚いて温室栽培といった方法はよく知られていますが、最近では反対に、冷蔵庫で冷やすことによって、実を結ぶ時期を遅らせたさくらんぼが、正月用に出荷され、一箱数万円とか、高いものは一粒千円といったものまで買い手がつくそうです。

 ところで、栽培する人間の苦労もさることながら、それ以前に種や苗そのものが持つ命の力、逞しさに改めて驚かされます。人間はその命の力を借りて、それが結ぶ実りに与っているからです。旧約聖書の創世記1章29節には次のような言葉があります。

 「神は言われた。『見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。』」

 この聖書の言葉は私たち現代人には無関係な、古代人が描いた物語ではありません。私たち人間の日々営みの背後には、神の存在があることを教えているのです。人間は神に造られ、神によって命を与えられ、生かされているのです。