2006年6月5日(月)惑わされない生き方

 ご機嫌いかがですか。勝田台教会の安田恵嗣です。

 新約聖書のガラテヤの信徒への手紙第3章1節には、驚くべき言葉が書き記されています。「ああ、物分りが悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。」

 私たちは、パウロの言おうとすることは分かると思いますが、しかし、いくらなんでも「ああ、物分りの悪いガラテヤの人たち」と言われますと、躊躇せざるを得ません。パウロが「物分りが悪い」と言っています意味は、決して、あなたがたは理解力が乏しい、事柄が全く分かっていないということではありません。そうではなくて、自分の知恵や知識に自信のある人が陥りやすい失敗のことです。つまり、自信を持っているがために本来見えているものが見えなくなっていることです。

 パウロからこのように物分りが悪いと指摘されてしまったガラテヤの人たちは、いったい何が見えなくなっていたのでしょうか。

「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられたはっきり示されてではないか」。パウロは伝道者としてみんなに見えるように、分かるようにイエス・キリストの十字架を語ってきたと、自分のしてきたことを述べています。パウロは決して一部の人だけに秘密を明らかにしたのではありません。

 大通りで行き先を示すプラカードを高く掲げるようにして主の十字架を語ってきましたパウロが語ってきたことは、あれやこれやではなく、キリストの十字架だけなのです。それも「イエス・キリストが十字架につけられた姿」として、このキリストこそ私たちの救い、私たちの神と告白をすることができるのです。イエス・キリストが十字架につけられている一点に、私たちの救いは関わっているのです。