2006年9月12日(火)今日わたしと一緒に

ご機嫌いかがですか。勝田台教会の安田恵嗣です。

十字架につけられたイエスの両側に、二人の犯罪人が十字架につけられていました。イエスの十字架は、罪を犯したためではなく人々の救いのためでした。そのむごい死の中にも、「人類の救い」という大きな意味が秘められていました。しかし、イエスの両隣の犯罪人は、何のためにこの世に生まれ、誰のために死んでいくのか、人間として生きてきた「証し」を残さないまま、十字架につけられていました。

犯罪人の一人はイエスをののしり、「自分自身と我々を救ってみろ」(39節)と言っています。彼にとってイエスは、たまたま隣り合わせになった人に過ぎませんでした。ところが、もう一人の犯罪人は、イエスと隣り合わせになることによって、自分の姿に思いを向けるようになりました。」お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」(40〜41節)とたしなめています。自分に目を向け、自分の罪深さを認識するときとなっています。

私たちは、悪いことを他人のせいにし、社会のせいにしやすいものですが、自分の姿を正直に認めるという点を、この犯罪人学ばなければなりません。
次に彼は、「イエスよ」と目を自分からイエスに向け、「あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と呼びかけています。これこそ立派な祈りであり、信仰告白です。信仰と祈りは、まず、イエスに目を向け、呼びかけ、助けを求めることから始まります。そのときイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(43節)と約束されたのです。