2006年9月13日(水)イエスの嘆

ご機嫌いかがですか。安田恵嗣です。
新約聖書のルカによる福音書13章34節に、次のような御言葉が記されています。

「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」

エルサレムとは、「平和の町」という意味です。この平和の町、イスラエルの都エルサレムを、イエスはなぜ嘆かれたのでしょうか。平和の町が、殺戮と不信仰の町に変わっていました。今日、国と国との間、家庭における親子、兄弟、夫婦の間、教師と生徒、職場や近所づき合いをしている人々との関係は平和でしょうか。それとも争い、憎しみ合っている状態にあるでしょうか。

人間は、憎み合い、いがみ合うことによって、決して満足と平安、喜びを得ることはできません。自分の「存在の根拠」が揺らぎ、心の帰属するところがない状態は、現代人の姿でもありますが、イエスのエルサレムへの嘆きは、この点にありました。

キリスト者は、神の言葉に従って生きていくことのために、時には、時代や社会の流れに抗することがあります。使徒パウロは、「夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身につけましょう。日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません」(ローマ13章12〜14節)と述べています。今こそ、この御言葉に従って神を信じ、人間らしく生きるときです。