2006年10月18日(水)見えなくなっても

いかがお過ごしですか。新所沢教会の長石です。

わりと良かった私の視力も、歳とともに遠視になってきて、ついに礼拝の時、聖書の節番号が見えなくなってしまいました。それまで見えていたものが、見えなくなるというのはショックです。キリスト教を世界中に伝えた大伝道者パウロは、回心前ユダヤ教徒としてクリスチャンを迫害しました。そうすることが神に仕えることだと堅く信じていたからです。

しかしある日、天からの光とともに主イエス様の声を聞いて、目が見えなくなりまし
「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」声は聞こえても、3日間何も見えないまま、飲まず食わずで過ごしました。真の信仰を持つということは、神様からの一方的な光を受けて、心の目が開かれることを意味します。つまりそれまで見えていたものが見えなくなって、新しいものが見えるようになるのです。心の方向転換のことを回心と言うように、動いていたものは、一旦止まらなければなりません。そこから回れ右をして動き出すからです。

見えなくなることはショックですが、真の神様が誰かを知り、本当に祝福された人生を歩み始めたパウロのように、一旦見えなくなることは神様の恵みです。神様が見えるように、神様はあなたにも、人生の方向転換の恵みを与えてくださるのです。