2006年11月8日(水)神の愚かさ

いかがお過ごしでしょうか。江古田教会の風間義信です。

その言葉を聞いただけでよい反応を示したり、逆に嫌な気分になるものもあります。たとえば「賢い」と言われたら嬉しいのですが、逆に「愚か」などと言われてしまったらどうでしょうか。

確かにいい気持ちはしませんが、この言葉を使って、聖書は最も大切なことを教えてくれています。それはイエス・キリストの十字架のことです。しかもこれを伝えることについても愚かな手段と言っています。

イエスが十字架につけられた、これを人々は愚かだと思いました。ですからつばをかけたり、汚い言葉でののしったりしたのです。けれども、その惨めと思える姿こそ、私たちの身代わりだったのです。
イエスの十字架に向かって浴びせられるののしり、それこそ知らず知らずのうちに心の奥に溜まっているものです。それを聖書では罪と呼んでいます。その自分でも気づかないまた抑えきれないものを、イエス・キリストがすべて受け止めて、この罪からの解放をしてくださったのが十字架です。
その姿は愚かに見えるかもしれません。けれども、その愚かさが私たちのためであるということを知らされるのは、本当の賢さを得ることになるのです。