2007年3月21日(水)キリストを半分しか持たない

ご機嫌いかがですか。勝田台教会の安田恵嗣です。

新約聖書にガラテヤの信徒への手紙があります。その手紙の中で一貫して主題となっていますのは、〈自由〉です。そのことが第5章に入りまして際立ってきます。ここで言われています自由とは、他者を裁く時に自分を利口ぶる心、また自分自身の生活の中で克服することができない愚かさから、どのように自由になれるのかということであります。

どうしてこれほどまでに、パウロからガラテヤの諸教会の人たちは批判されているのでしょうか。それはイエス・キリストの救いを信じるキリスト者だからです。ジュネーヴの宗教改革者のカルヴァンは、ガラテヤの信徒への手紙の解説の中で、「キリストを半分しか持とうとしない者は、キリストを完全に失ってしまう」と書いています。私たちがわかっていながら、愚かさから抜け出すことができないのは、キリストを半分しか持っていないためではないでしょうか。だからこそ、真実に確かな自分自身の生活の根拠を獲得することができないのです。

パウロは、「あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります」(2節)と述べていますし、「キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います」(4節)と書いてあります。これがパウロの見ているガラテヤの諸教会の姿です。信仰をもっているというけれども、キリストを半分しか持っていない信仰ではないのか。半分しか持たないことは、自分にとってキリストが何の役にも立っていなことではないかとパウロは指摘しています。