2007年10月15日(月)生き方はっきり

ご機嫌いかがですか。勝田台教会の安田恵嗣です。
新約聖書のガラテヤの信徒への手紙第3章1節には、驚くべき言葉が書き記されています。

「ああ、物分りが悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。」

パウロは、愚かな思いに取り付かれ、惑わされているガラテヤの諸教会に、何が真実であり、何を私たちが見続けていかなければならないかを、一所懸命に語ろうとしています。

パウロからこのように物分りが悪いと指摘されてしまったガラテヤの人たちは、いったい何が見えなくなっていたのでしょうか。
「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきりと示されたではないか」。パウロは伝道者としてみんなに見えるように、分かるようにイエス・キリストの十字架を語ってきたと、自分のしてきたことを述べています。パウロは決して、一部の人だけに秘密を明らかにしたのではありません。大通りで行き先を示すプラカードを高く掲げるようにして主の十字架を語ってきました。パウロが語ってきたことは、あれやこれやではなく、キリストの十字架だけなのです。それも、「イエス・キリストが十字架につけられた姿」として、このキリストこそ私たちの救い、私たちの神と告白することができるのです。イエス・キリストが十字架につけられている一点に、私たちの救いは関っているのです。

私たちの救われる道は、ただ一つ、イエス・キリストの十字架であります。私たちは、これからもいろいろを惑わしを受けながら、地上のはせ場を歩んでいかなければなりません。この惑わすものと戦い、勝利するために、ひたすらイエス・キリストが十字架につけられた姿を見続けていきたいと願います。