2007年11月15日(木)ただ恵みによって

いかがお過ごしですか。秩父教会の岡本 告です。

改革派教会では契約信仰に立って、信者の子供にも洗礼を授けます。幼児洗礼について様々な解説の仕方があります。その一つは、望みなき罪人がただ神様の恵みによって救われる真理を完全に表す象徴というものです。赤ちゃんはまだ何も成し遂げたことがありません。そもそも自分一人ではまだ何も出来ません。

その赤ちゃんが、洗礼の水を注がれて教会に加えられることは、まさに私達罪人がただ恵みによって救われることを鮮やかに示していると言えるのです。私達がクリスチャンになるのは何か立派な信仰の行いをした功績のためではありません。あるいは、神様の御前に認められるような良き行いをする潜在力が私達の内にあるわけでもないのです。自分の力では救いを獲得出来ないばかりか、そのことを望みもしないのが私達の現実なのです。

エフェソの信徒への手紙2章8〜9節にこう書かれております。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」
私達が救われるのは行いによるのではなく、恵みによってです。信仰すら神様の恵みによる賜物です。そして信仰が何かの価値を持つのではなく、信仰は神様が救い主イエス様によって無償で与えて下さる救いを受け取る手なのです。私達罪人はそのあるがままで、救い主イエス様に寄り頼むことによって、ただ神様の一方的なご好意によって救っていただけるのです。