2008年2月20日(水)人生はだれのもの?

ご機嫌いかがですか。勝田台教会の安田恵嗣です。

主イエスが神殿に集まっている人々を追い出された聖書の物語があります。父なる神の家を取り戻そうとなさる闘いをされました。そのとき主イエスが神殿を「祈りの家」だと言われました。それだけに、なぜこの神殿で、あなたがたはまことの神の子としての礼拝を捧げないのかと問われます。主イエスは、父の家を取り戻すために訪ねて来られました。

さて、聖書が語るところの罪は、いったいどういうものでしょうか。聖書が語ります罪は、自分の人生は自分のものだとすることです。自分の人生は、わたしのものだというのは当然のことだと思うでしょう。二度とないわたしの人生をわたしがどうしようが勝手だと思うでしょう。だが、そこで主イエスが泣いておられます。この人生は、まことの神のもの、まことの神の愛の中に生かされるべきもの、それなのに、なぜ神のものを、人生をわたしのものだと言うのか。ある説教者がこれを〈人生を私のものとする罪〉と言いました。その罪がまさしく主イエス・キリストを十字架につけたのであります。

しかし主イエスは、十字架に付けられて死なれます時、祈られました。「父よ、彼らをお赦しください」。主イエスが死なれた後、エルサレムの都は、目に見えるかたちで崩壊してしまいましたが、イエスを十字架に付けた人間の歴史はそこで滅ぶことはありませんでした。イエスご自身の祈りが、滅びから私たちを守ってくださったからです。私たちもまた、主イエスの悲しみから生まれる祈りに支えられて生きることができますことを喜びたいと願います。