2008年2月21日(木)猜疑心からの自由

ご機嫌いかがですか。勝田台教会の安田恵嗣です。

主イエスは、マルコによる福音書11章23節で「だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならばそのとおりになる。」と言われました。そのようにして信仰の言葉、確信の言葉を口にされています。私たちは、本当は祈りが聞かれているようにはなかなか思えないことが多いのです。私たちは、人前で信仰の言葉を語り、あるいは祈りの言葉を口にしますけれども、心はそれとちがうところにある場合が多いのです。

言葉を語っています心とそれを疑っています心とが、私たちの中に混在しているのです。信じているようでありながら、自分の心は分裂しているのです。私たちは、鯛焼きの頭から尻尾まで餡がしっかりと詰まっているような信仰者でありたいと願います。

「疑う」という言葉は、本来は、物を判別するという意味の言葉です。このことは大切なことです。きちんとこの判断ができませんと、人として基本的なことを欠いてしまいます。けれども、この判断はいつも正しいとは限りません。確かに、自分が判断しているのですが、明確に黒白つけられなくて曖昧になることがあります。神の言葉を信じると言いながら、片方では別の規準を持ってきて、神の言葉を疑うのです。主イエスは、ここで、疑いを捨てる信仰を持つようにと私たちを励ましていてくださるのであります。