2008年8月1日(金)生きている神の言葉

いかがお過ごしでしょうか。江古田教会の風間義信です。

聖書は生ける神の言葉と言われますが、生きているということは、そこに命があるということです。命あるものだからこそ、私たちの心の思いや考えを見分けることができるのです。そもそも神は言葉によって世界を創造されました。また言葉が人となって、イエス・キリストとしてこられたのです。このイエス・キリストが私たちの罪を赦すために十字架にかかってくださったのです。

このイエス様の十字架が行われた過越しの祭りという時には、何と26万6千5百頭の羊が殺されていたと言われます。これが罪の赦しのためになされたことでして、自分の罪を自覚したら、年に一度のこの過越しの祭りにおいて、身代わりとして羊の血を流すことによって、人の罪は赦されるとなりました。

本来なら、羊ではなく、罪を犯した本人が自らを差し出さないといけません。でも差し出してしまったらそれでもうおしまいです。だからこそ、あなたではなく、あなたの身代わりにこの方、イエス・キリストが犠牲となられた、それが十字架です。だからこそ、この身代わりの、そして赦しのしるしである十字架を教会は高々と、堂々と掲げ続けているのです。
ぜひ、十字架を見上げるたびにあなたの罪を赦すために流されたイエス様の犠牲の血を思い、感謝をささげてまいりましょう。