2008年8月6日(水)信仰は聞くことによる

ご機嫌いかがですか。勝田台教会の安田恵嗣です。

イエス・キリストの十二弟子の一人に、ペトロという人がありました。彼は、もともと漁師で、ガリラヤの湖で魚をとって暮らしていましたが、キリストの召しを受けて、網と舟とを捨てて、キリストに従いました。

そもそも、私たちが、「信じる」というとき、一体、自分は何を信じているのかということがはっきりしていなくてはなりません。

ペトロの手紙二 1章2節のところで、ペトロは、「神とわたしたちの主イエスを知ることによって、恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられますように」と祈りました。また手紙を閉じるにあたって、3章18節では「わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい」と勧めています。このほかのところでも、ペトロはしばしば、「知る」とか「知識」という言葉を使って、信仰のあるべき姿を教えています。しかもペトロが、神を知る、あるいはキリストを知ると申しますときに、それはたいへん強い言葉です。それは単なる顔見知りというくらいのことではなく、十分に知る、深く知る、徹底的に知るという意味を持っています。
信仰において、この「知る」ということをおろそかにするならば、たとえ信仰の態度がいくら熱心であっても、神様に喜ばれることはできません。使徒パウロも「実に、信仰は聞くことにより」と申しました

神さまが今、あなたに求めておられることは、あなたが聖書を手にとって、神の言葉を読み、神の与えてくださる救いの福音を聞くことであります。どうか、聖書を読んで、神さまを知るものとなってください。そして特に、救い主であるキリスト・イエスを知っていただきたいのであります。