2008年10月22日(水)かくれた嘆き

ごきげんいかがですか。綱島教会の川杉安美です。
自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々について、イエス様がたとえ話をされました。

二人の人が、神殿でお祈りをします。一人はこんなふうに祈ります。「神様、わたしはほかの人たちのように、不正な者ではなく、もう一方の人のような罪人でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、ちゃんと献金もしています。」もう一方の人は、自分の胸を打ちながらこんなふうに祈ります。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」
自分の胸を打ちながら、というのは、本当に自分の罪を悲しんでということです。自分の罪を悲しみ嘆きながら「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」と祈るわけです。
そして、この二人のうち、正しい者だと認められて、そうして家に帰ったのは、後の人だとイエス様は教えられたのです。

前の人は、本人としては、自分はちゃんとやっている、お祈りもし、聖書もちゃんと学び、断食や献金もし、罪人のようには生活していない、そういうふうに思っているかもしれません。それで、神様からおほめをいただけると思っているかもしれません。そして、そのようにできない人を見下します。しかし、これを高ぶり、高慢と言います。
後の人は具体的な活動や生活、外に見える部分では、確かに罪人と言われても仕方のないような面があります。けれども、そのことを素直に認める心があります。そして、神様の前にへりくだった心を持っています。

神様は、外側よりも、その内側の心を見てくださいます。へりくだった心、神様に憐れみを求める心、そういう心を見てくださいます。