2009年4月6日(月)見捨てられた主

ご機嫌いかがでしょうか。勝田台教会の安田恵嗣です。
今週は、受難週と言いまして、わたしたちを罪から救うために身代わりとなって十字架につけられ殺されたイエスさまのことを覚えるときです。

旧約聖書のイザヤ書53章3節、4節に次の御言葉が記されています。
「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と」。

私たちは軽蔑し、無視し、見捨ててしまいました。この人の痛み、罪は私たちには関係がないと思っていました。神に打たれると、あのような恥ずかしいことになるのだと思っていました。主の僕としての歩み、十字架の苦しみ、痛みを、すでに知っていたかのような預言者の言葉を読みながら思います。今、私たちが描く主イエスの十字架は、多くの場合、栄光に満ちています。残酷な死として描かれることはあっても、無視できない姿です。だが、本当は、主は見捨てられて死なれたのです。このことは、もしかすると私たち自身の病、私たち自身の痛みの真相がどのようなものであったかを、私たち自身がよく分かっていないからではないでしょうか。イエスさまは、私たちを救うためにこれらすべての苦悩を、あの十字架においてすべて引き受けて、私たちに平和をもたらしてくださったのです。