2009年8月4日(火)誰にでも

いかがお過ごしでしょうか。東京教会の今井 献です。
ルカ福音書23章32節以下を読むと、イエスとともに二人の強盗が十字架につけられたことがわかります。

その1人がイエスに向かって、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」とののしったところ、もう1人がそれをいさめて言いました。「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」。
するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と断言し、この強盗を救って、神の国に招き入れました。
この強盗は、自分の罪を認めています。そして、十字架にかかっているイエスのもとに神の国があることを知って、イエスに信頼し、救いを求めました。

強盗は、一体どこで、どのようにしてイエスのことを知ったのだろうかということにわたしたちの関心は向きがちですが、ルカ福音書は、イエスによって救われる者の代表として、この強盗を用いているのです。すなわち、自分の罪を認め、十字架のイエスのもとに神の御国、すなわち永遠の命があることを確信して、一切をゆだねる、これは洗礼を受ける時の信仰そのものです。

この強盗は、最後の時にキリストを見出し、その人生を栄光あるものに変えていただきました。平安のうちに生涯を終えるために、遅すぎるということがないことを知ってください。キリストを信じるまことの救いと平安は、誰にでも約束されています。