2009年8月11日(火)いけにえとしてのキリスト

いかがお過ごしですか。新所沢教会の長石です。
キリスト教の礼拝について語る聖書の言葉に、次のような一節があります。

「信仰に基づいてあなた方がいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同とともに喜びます。同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。」フィリピの信徒への手紙2章にある言葉です。

この言葉は、キリスト教の礼拝について三つの事実を教えています。第一に、礼拝は神にいけにえをささげる場であること。第二に、神へのいけにえは、キリストによってすでに献げられていること。それゆえ第三に、礼拝は、信仰による感謝と喜びをもって献げられることです。
このように聖書が教えるキリスト教の礼拝は、キリストという完全ないけにえを介し罪を清められ、聖なる神との交わりを回復する礼拝です。

旧約の時代は、礼拝の度に動物をいけにえとして献げていました。しかしキリストという完全ないけにえが献げられた新約の時代は、その必要がなくなりました。しかし、だからといっていけにえ自体がなくなったのではありません。むしろ礼拝の度に、私たちはキリストの尊い犠牲を思い、感謝するのです。
礼拝は、人と出会う前に、神と出会い、人と交わる前に、神との交わりを回復する場です。そこに真の喜びが、神によって与えられるのです。