2009年12月17日(木)苦しい学びの思い出

ごきげんいかがですか。東川口教会の櫻井です。
今から30年以上前に、私はラジオ放送を通して初めて聖書を知りました。そして聖書をもっと知りたいと、聖書通信講座と言うモノを受講したのです。この学びの中で、私は最初に聖書に記されている神様の戒めが一つ一つ、どのようなことを要求しているかを学びました。そこで私は「そうか、この戒めを熱心に守れば、自分は救われるのだ」と思って、その戒めを実行しようとしたのです。
しかし私は、実際に神様の戒めに忠実に生きようとすればするほど、それができない自分を自覚するようになりました。そればかりではなく、今までは当たり前のようにしていたことも、神様の戒めに背くものであることを知りました。そして、自分は神様の裁きを免れ得ない絶望的な存在であることに気づかされたのです。

苦しくて聖書の学びを止めようと思ったときに、その学びを指導してくれていた方が私にこう語りました。「確かに私たちは神様の裁きを免れ得ない絶望的な存在です。でも、その私たちを救うためにイエス・キリストが来られたことも学んでほしいのです」。
そして私はこの後、救い主イエス・キリストについて学び、そのイエスを自分の救い主として信じることができるようにされたのです。

聖書の言葉
「こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。」ガラテヤの信徒への手紙3章24節