2010年7月1日(木)み言葉が福音となるとき

いかがお過ごしですか。新所沢教会の長石です。
神の言葉が語られるとき、それが単なる知識ではなく、福音として聞かれるということが起ります。キリスト教の歴史は、その意味で福音宣教の歴史と言うことが出来ます。例えば、イエスが公に活動を開始された頃、ガリラヤ湖で網を打っている二人の漁師をご覧になりました。彼らに「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われると、「二人はすぐに網を捨てて従った」とあります。ここで明らかなことは、キリストの言葉には、聞く者を動かさずにはおかない力があり、聞く者の心に喜びの音信(おとずれ)、すなわち福音として届き影響を与えたという事実です。

実際、別の福音書では、この言葉を聞いた一人は自分の兄弟に「わたしはメシアに出会った」との喜びを伝え、二人とも職を捨ててイエスの弟子となっています。これはキリストの言葉を福音として聞く者は、また福音を伝えることができるという実例です。

人は神の前に罪をもち、罪は人を神から遠ざけ、神の前に出ることを妨げます。しかし神はキリストを通して人に近づき、福音を語られ、受け入れる者の罪を赦し、死から永遠の命へと導かれます。神の言葉は悔い改めを必要とする罪人への福音であり、まさしく喜びのおとずれです。今あなたにも神は語っておられます。「わたしについて来なさい」との福音を。