2017年9月22日(金) まことのぶどうの木であるイエス

 いかがお過ごしでいらっしゃいますか。南越谷コイノニア教会の黒川豪です。
 今週は、主イエスの「わたしは○○である」という御言葉に注目してきました。

 主イエスは、十字架につけられる直前の夜、弟子たちに「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」とお語りになりました。主イエスは、この世の中に嘘のぶどうの木があって、それに対して御自分が本物のぶどうの木であると言っておられるのではありません。

 旧約聖書では、イスラエルの民が、しばしばぶどうの木にたとえられています。主イエスは、イスラエルの民が実を結ばない影のようなぶどうの木であったのに対して、御自分は本体としてのぶどうの木である、と語っておられるのです。

 主イエスは弟子たちに対して、また主イエスを信じるわたしたちに対して、ヨハネによる福音書15章5節にありますように、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」と語っておられます。枝は、枝だけでは実を結ぶことができません。ぶどうの木につながっていてこそ、水分と養分を受けて、豊かな実を結ぶことができるのです。

 同じようにわたしたちは、主イエスに聖書の御言葉と祈りによってつながっていてこそ、豊かな実を結ぶことができるのです。たとえ試練の中にあっても、主イエスにつながり続け、主イエスの内にとどまり続けるとき、豊かな実を結ぶ人生を歩むことができるのです。それが聖書の約束です。