2018年7月16日(月)失われる神の言葉

 ごきげんいかがでしょうか。草加松原教会の川杉安美です。

 キリスト教は言葉による宗教です。しかし、神様の言葉が語られても、それが受け止められない場合があることを、イエス様は教えられました。たとえ話を用います。

 ある人が種を蒔きます。昔のことですから、今のように丁寧に植えていくというやり方ではありません。種をばらまくようにしたり、あるいは穴のあいた種の袋を家畜に背負わせて歩き回らせたり、大雑把なやり方です。そこで、種はあちらこちらに落ちます。ある種は道端に落ちました。そのため、鳥が来て食べてしまいます。

 そのたとえがどういうことを示しているかというと、神様の言葉が語られてもそれを悟らず、すぐにその言葉が失われてしまう状態のことを言っています。身近な表現では、「右の耳から左の耳へ」ということでしょうか。種が蒔かれたということは、確かに神様の言葉が語られたということです。ただ、それをどう受け止めるかという聞き手の問題を問うています。もっと強引にでも知らせたり悟らせたりすればいいではないか、という声も聞かれそうです。

 しかし、たとえば犬の首に縄をつけて強引に引っ張っていくようなやり方は、人を人格ある者として扱っていません。動物や物のような扱いです。神様は、人間をそんなふうには扱わないのです。言葉で語りかけることを通して、人格的な関係の中で、神様を知るように導いておられるのです。

 神様は今も聖書を通して、私たちに語りかけておられます。その言葉をどう受け止めるかということなのです。