2005年1月20日(木)テサロニケの信徒への手紙二 1:5-10「神の判定の正しさ」

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいたいと思います。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 神の裁きについて語るというのはとても難しい面があります。そもそも聖書の神を信じない人にとっては、最後の審判についての聖書の教えは、全く意味のないものであるか、あるいは不愉快な教えに過ぎません。中には裁きへの恐れから、信仰に入るという人もいるかもしれません。

 では、キリスト教の信仰をもっている者にとって、神の裁きについての教えがどう響くのか、これも一様であるとはいえません。キリストがすべての罪を身代わりになって背負ってくださったことを信じながらも、しかし、最後の審判についての教えを、畏れと慄きをもって聞くという人もいるでしょう。

 あるいは、自分が裁かれるのではないかと言う恐れよりも、むしろ神の正義の実現ということに、より大きな関心をもって聞く人もいるでしょう。

 あるいはもっと単純に、自分を苦しめている者たちへの神の報いをそこに見出しながら、慰めと励ましを受ける人もいるでしょう。

 きょうこれからお読みする個所には、神の最後の審判いついての激しい言葉が記されています。この言葉をどう聞くかに気をつけながら、ご一緒に聖書の御言葉を学びましょう。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みします。きょうの聖書の個所は新約聖書テサロニケの信徒への手紙二 1章5節〜10節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 これは、あなたがたを神の国にふさわしい者とする、神の判定が正しいという証拠です。あなたがたも、神の国のために苦しみを受けているのです。神は正しいことを行われます。あなたがたを苦しめている者には、苦しみをもって報い、また、苦しみを受けているあなたがたには、わたしたちと共に休息をもって報いてくださるのです。主イエスが力強い天使たちを率いて天から来られるとき、神はこの報いを実現なさいます。主イエスは、燃え盛る火の中を来られます。そして神を認めない者や、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者に、罰をお与えになります。彼らは、主の面前から退けられ、その栄光に輝く力から切り離されて、永遠の破滅という刑罰を受けるでしょう。かの日、主が来られるとき、主は御自分の聖なる者たちの間であがめられ、また、すべて信じる者たちの間でほめたたえられるのです。それは、あなたがたがわたしたちのもたらした証しを信じたからです。

 今お読みした個所は、先週取り上げた3節と4節に続く個所です。前回もお話した通り、きょうお読みした個所は、文章としては3節4節に続く一続きの文章です。しかし、内容の上から考えて、5節から10節を分けて取り上げることにしました。

 ここには最後の意審判についての激しい言葉が繰り広げられています。例えば「(神は)あなたがたを苦しめている者には、苦しみをもって報いる」とパウロは断言します。また、この最後の審判は、主イエスが「燃え盛る火の中を来られる」ときに実現するものとして、その恐ろしさが強調されます。その審判の対象は「神を認めない者や、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者」であるといわれ、その裁きの内容は「主の面前から退けられ、その栄光に輝く力から切り離されて、永遠の破滅という刑罰を受ける」という厳しいものです。

 パウロは同じ教会にすでにもう一通の手紙を書いていますが、そこには見られなかったような激しい言葉を使いながら、最後の審判の恐ろしい様子を描いています。

 しかし、この個所を読むときに、こうした最後の審判の恐ろしさだけに目を留めながら読むとするならば、それはパウロの意図を読み違えることになりかねません。

 まずここでは前回取り上げた4節からのつながりに注意をしなければなりません。パウロは4節でテサロニケの教会の信徒たちの忍耐と信仰を誇りに思っていることを述べました。その忍耐と信仰は、迫害と困難の中で示されたものです。では、その苦しみが何に由来するのかというと、それは「神の国のために受ける苦しみ」であるということが5節に述べられます。つまり、テサロニケの教会の人々は、正にその受ける苦しみによって、自分たちが神の国の側に立つ者であることを示しているのです。このありとあらゆる迫害と苦難の中で示された忍耐と信仰は、テサロニケの教会の信徒を神の国にふさわしい者としてくださった神の判定が正しいものであることの証拠であるとパウロは述べているのです。そして、このことは確かに、3節で述べるパウロたちの感謝の言葉と密接に関わりのあるものです。きょうは5節を切り離して、あたかもそこから新しい段落が始まっているような取り上げ方をしましたが、実際にはテサロニケの教会のことで述べる「感謝の言葉」という文脈の中で5節の言葉は読まれなければなりません。  ところが、6節以下は5節で述べた「神の国のための苦しみ」というところから発展して、最後の審判について触れることになります。しかし、ここでのパウロの関心は最後の審判についての詳細なプロセスを描こうすることにあるわけではありません。また、テサロニケの第一の手紙4章13節以下に描かれるキリストの再臨についての教えに比べると、確かにここでは悪人の裁きについての言葉が目立ちますが、それも、そのことを取り立てて描こうとしているわけでもありません。  パウロの関心は、迫害と苦難の中で忍耐し、信仰を固く保っているテサロニケ教会の将来についてです。パウロはこの教会の行く末を決して不安の中で見ているのではありません。そうではなく、彼らが体験している迫害と苦難にもやがては終止符が打たれ、休息の時を迎えることをパウロは確信しているのです。パウロはそのことを確信し、テサロニケの教会の人々がこれからも忍耐と信仰とを示しつづけることを希望をもって期待しているのです。そして、そのパウロの確信は、苦難の中にあるテサロニケの教会の人々にとって、同時に慰めであり励ましでもあるのです。テサロニケの教会が受けている苦しみを神は知っていてくださっています。その苦しみには必ず終止符が打たれる時が訪れます。そして、そのとき今までの苦難から解き放たれてまったき休息を味わうことができるようになるのです。

 教会に対するこのような神の配慮とご計画は今も変わることがありません。このようにご自分の民である教会を守り導いてくださる神を見上げて歩みましょう。