2005年1月27日(木)「恵みによって主の御名が」 テサロニケの信徒への手紙二 1章11節〜12節

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいたいと思います。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 長い話や難しい話を理解するということは、かなりの訓練を必要とします。聞きなれた人の聞きなれた話であれば、多少長くても、少々難しくても、言いたいことのポイントを逃すことはないものです。

 パウロの手紙は、初めて読む人にとっては、簡単とはいいがたいものがあります。特に時代も文化も違うわたしたち日本人が読むときには、そう感じることが多いように思います。

 けれども、全部を理解できないとしても、手紙の中で最も言いたいことは祈りの言葉の中に現れているように思います。祈りの言葉に注意を傾けて手紙を読むならば、わたしたちに何が期待されているのか、読み違えることはありません。

 これは余談ですが、礼拝の説教も、説教後に祈る牧師の祈りの言葉に耳を澄ましていれば、何を一番語りたかったのか理解できるのではないかと思います。

 さて、きょうの個所にはパウロの祈りの言葉が出てきます。早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書テサロニケの信徒への手紙二 1章11節と12節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 このことのためにも、いつもあなたがたのために祈っています。どうか、わたしたちの神が、あなたがたを招きにふさわしいものとしてくださり、また、その御力で、善を求めるあらゆる願いと信仰の働きを成就させてくださるように。それは、わたしたちの神と主イエス・キリストの恵みによって、わたしたちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主によって誉れを受けるようになるためです。

 今お読みした個所は、ギリシャ語の原文で読む限り、文章の途中の不自然なところから始まっています。前回もお話した通り、3節から12節までは一続きの長い文章です。ここではそれを3回にわけて取り上げています。きょうはおしまいの2つの節を取り上げようとしています。  そもそも3節から始まるこの文章は、テサロニケの教会のことで神に感謝を述べている個所です。特にテサロニケ教会の信仰の成長と愛の豊かさをパウロは神に感謝しました。それも、何もない平穏無事のなかでぬくぬくと育ったと言うわけではなく、むしろ厳しい苦しみの中で信仰と愛とを保ってきた教会なのでした。

 このテサロニケの教会が受けた苦しみに関して、パウロは5節以下のところでは、世の終わりと救いの完成についての見通しをやや長く語りました。その点に関しては先週学んだとおりです。確かに、この分部では迫害を加える者たちの審判について、身も震えるような恐ろしい言葉が並べられていました。しかし、パウロの関心は迫害者たちの行く末ではなく、むしろ、救われた者たちが受ける救いの完成と、救い主の御名が崇められることに関心がありました。その関心を受けて祈る言葉が、きょう取り上げた個所と言うことが出来ます。  11節は「このことのためにも」という言葉で始まります。「このこと」というのは3節から10節までの全体を受けているのでしょう。特に10節で述べられた事柄を念頭に祈っていると考えられます。つまり、かの日に主が来られる時に、主がご自分の聖なる者たちの間であがめられ、ほめたたえられる、そのためにパウロはいつもこう祈っていると言うのです。

 その一つは、神がテサロニケの教会員たちを神の召しにふさわしい者としてくださるようにと言うものです。

 クリスチャンはイエス・キリストを通して、神の御前に召し出された者です。神が招いてくださった、その招きにふさわしく生きることがクリスチャンには求められています。このことについて、パウロはテサロニケの第一の手紙4章7節でこう述べています。

 「神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです。」

 招いてくださった神が聖なる者であるように、招かれた者も聖なる生活をすることが求められています。パウロは祈りの言葉として、テサロニケの信徒への第二の手紙では、招いてくださった神が、信徒一人一人を招きにふさわしくしてくださいますようにと願っています。

 パウロの祈りの第二のポイントは、神の力によって、善を求めるあらゆる願いと信仰の働きを神が成就してくださるようにとのことです。ここには二つのことにテサロニケの教会の人々が満たされるようにとパウロは神に願っています。

 その一つは善を求めるあらゆる願いに満たされることです。迫害の苦しみの中にある教会が、自分たちに対して敵意を抱く者たちに囲まれながら、なお、善を求める願いに満たされるということは、決して容易なことではありません。目には目、歯には歯という思いが心をよぎらないとも限りません。そうであればこそ、パウロは、神のみ力によって、テサロニケの教会の信徒たちが善を求めるあらゆる願いに満たされるようにと祈っているのです。

 パウロがテサロニケの教会の人たちのうちに満ちて欲しいと願っているもう一つのことは、信仰の働きが溢れるようになることです。

 「信仰の働き」という表現はテサロニケの信徒への手紙一の1章3節にも出て来ました。聖書の中に出てくる「信仰」というのは、ただ信じてじっとしているような動かないものではありません。パウロは別の個所で「愛の実践を伴う信仰」(ガラテヤ5:6)について述べました。パウロはテサロニケの教会が善を求めるあらゆる願いに満たされると共に、信仰の働きにも豊かになることを神に祈り求めています。

 さて、そのようにパウロが祈る目的は、続く12節で明確に述べられます。

 「それは、わたしたちの神と主イエス・キリストの恵みによって、わたしたちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主によって誉れを受けるようになるためです。」

 まずはじめに、その結果として、主イエスの御名があがめられるためです。クリスチャンの人生の目的は、何を差し置いても神の栄光が現れることです。と同時にパウロはテサロニケの教会員たちがキリストにあって栄誉を受けることをも願っています。クリスチャンによって主の御名が栄光を受けることと、キリストにあってクリスチャンが誉れを受けることとは、切り離されては考えられないのです。

 結局は、パウロはテサロニケの教会の一人一人が、主の栄光を表し、主の栄光のうちを歩む者となることを切に祈り求めているのです。このことを、わたしたちもまた祈り求めていきたいと思います。