2005年4月14日(木)「イエス・キリストの誕生の次第」 マタイによる福音書 1章18節〜25節

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 キリスト教の教えの中で、おそらくもっとも難解なものの一つに挙げられるのが、「処女降誕」の教理ではないかと思います。イエス・キリストがその母マリアの胎に宿ったのは、普通の人間の出生とは全く異なる仕方であったというものです。つまり、聖霊によっておとめであるマリアはイエスを身ごもったという教えです。この教えは残念なことにずいぶんとおかしな方向に一人歩きをはじめてしまいました。普通の人間の出生にはありえないことですから、それも無理はありません。ただし、人間の関心は「聖霊によって宿った」という言葉よりも、「処女であるマリアが身ごもった」と言うことばかりに傾いたように思います。19世紀から20世紀にかけては、「処女降誕」の教理を信じないことがトレンディで理性的なキリスト教だとさえ思われていた時期もあるくらいです。そうした行き過ぎたキリスト教に対する反論の書物もたくさん書かれました。

 きょう取り上げるのは正にそうした「処女降誕」に関わる記事が記されている個所です。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 1章18節から25節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

  イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

 今お読みした個所は、イエス・キリストの誕生の次第を記した個所です。そこに記された事柄を公平な気持ちで読むとすれば、マタイ福音書が、必ずしも「処女降誕」ということをことさらに強調しているわけではないと言うことに気がつれたと思います。何故、イエス・キリストは処女から生まれなければならなかったのか、ということを取り立てて弁証しようとしているわけではありません。マタイ福音書が記そうとしていることは、イエス・キリストの誕生の次第とその意義についてなのです。

 誕生の次第について言えば、18節でマタイ福音書は淡々とこう述べます。

 「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」

 もしこの一文から「聖霊によって」と言う言葉を抜いたとしたら、それは大変なスキャンダル事件です。

 「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、身ごもっていることが明らかになった」

 今でこそ聖書が明らかにしているとおり、それは「聖霊」によってもたらされたことなのですが、そうとは知らない婚約者のヨセフにとっては一大事件です。それが19節に短く記されるヨセフの苦悩なのです。表ざたにしないで、密かに離縁することがマリアにとって一番の道だとヨセフは信仰的に考えて決断したのです。人間的に考えれば、このような事件によってヨセフはどれほど心を悩ませ、傷ついたことでしょうか。そのことを書き始めたら小説の数ページは埋まってしまうでしょう。しかし、マタイ福音書はヨセフの人間的な苦悩については控えめに記し、むしろ、イエス誕生の意義について語る天使の言葉にすぐ関心を移します。

 当然のことながら、人間が抱く疑問…「どうしてマリアは処女でありながら子どもを身ごもったのか」という疑問に対しては、天使の言葉は単純明快に「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」と答えています。それ以上のこともそれ以下のことも述べません。これは人間がそのメカニズムを考えてどうこう結論付ける事柄ではないからです。信仰をもって受け止めるべき事柄なのです。ヨセフもこの御使いの言葉を受け入れて、恐れずマリアを迎え入れたのです。

 御使いは続いて、生まれてくる男の子がどのような存在であるのかを語ります。。

 その子が「自分の民を罪から救う」お方であるがゆえに、「イエス」と名づけるようにと命じます。「イエス」というのはヘブライ語の「イェホーシュア」という名前から来ています。それは「主は救い」という意味の名前です。生まれてくる男の子は「主」であり「救い」であるお方なのです。しかも、そこで言う救いとは、罪からの救いです。人間には様々なイメージの救いがあるかもしれません。民族の独立も一つの救いかもしれません。搾取からの解放も救いでしょう。しかし、イエス・キリストがお生まれになったのは、罪という縄目からわたしたちを解放するためでったのです。

 ちょっと余談になりますが、わたしたちはイエスを「救い主」と呼ぶのを習慣としています。「救い主イエス・キリスト」とイエスのことを呼んでも何の違和感もありません。しかし、新約聖書の中で「救い主イエス」と呼んでいる個所は数えるくらいしかありません。ちょっと不思議な気がします。しかし、考えても見れば「イエス」という名前そのものが「救い主」と言う意味を含んでいるのですから、「救い主イエス」という言い方は饒舌だったのかもしれません。

 最後にマタイ福音書は、このイエス・キリスト誕生の意義を旧約聖書の預言者イザヤの言葉によって解き明かします。

 「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。」

 「おとめが身ごもって男の子を産む」という預言の成就もさることながら、それ以上にマタイ福音書が強調しているのは、このお方こそ「神が我々と共におられる」ということを現実のものとしてくださるお方であるということなのです。イエス・キリストと共にあるとき、まさに神の恵みと祝福とを豊かにいただくことができるのです。