2005年6月9日(木)「弟子の召命」 マタイによる福音書 4章18節〜22節

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 キリスト教会の牧師をしていると、いろいろな人から色々な質問をされます。よく尋ねられる質問の一つに、「先生はどうして牧師になったのですか」と言うのがあります。実は私も他の牧師たちにしてみたい質問の一つです。きっと返ってくる答えは人それぞれ違っていることだと思います。そして、その一つ一つの答えの中にその人その人の人生を垣間見るようなものがあるに違いありません。ただ、違ったストーリーの中に、一つだけ共通している点があるとすれば、それはそのように神様から召し出していただいたという意識だと思います。それをキリスト教会では「召命感」と呼んでいます。ちなみに、わたしが所属している教派では、牧師になる前の準備の段階の時に、何回か召命感についての作文を書くように求められています。

 さて、きょう取り上げようとしている個所は、イエス・キリストが最初の弟子たちを召し出されたお話です。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 4章18節から22節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。

 ここにはペトロをはじめ、二組の兄弟、四人の弟子たちが、イエスによって召し出されるお話が記されています。ペトロに関して言えば、弟子として召し出されるお話は、他にもルカによる福音書とヨハネによる福音書に記されています。しかも、マタイによる福音書とは全く別のお話がそれぞれに記されているのです。どれが正しくてどれが間違いかという関心でつい読み比べてしまいがちですが、どれもペトロにとっては真実な話なのでしょう。いえ、ペトロにとってというより、召し出して下さった神にとってどれも真実なのです。そうでなければ、違った話をわざわざ残しておくはずはありません。神は何度も召命感を確認し、確かなものにしてくださるのですから、一人の人間についていろいろなストーリーがあっても不思議ではありません。

 さて、マタイによる福音書によれば、最初に召された四人の弟子は皆、ガリラヤ湖で漁師をしていた者たちでした。漁師だったということには特別な深い意味があったとは思えません。確かに彼らを召し出される時に、イエスはペトロたちに「あなたがたを人間を取る漁師にしよう」とおっしゃいました。しかし、そのためにわざわざ本物の漁師を探して弟子にしたとは思えません。イエスの弟子は、確かに「人間を取る漁師」と言われていますが、時として弟子たちは収穫を刈りいれる農夫として、その働きが描かれることもあります(マタイ9:38)。その後弟子として招かれた人の中には税金を集める徴税人の仕事をしていた人もいれば(マタイ9:9)、熱心党の人もいました(10:4)。従って最初の弟子たちは漁師であったから特別に選ばれたというわけではありません。

 ところで、この記事を読む時に、どこに心を注いで読むのかということはとても大切なことです。この記事を読む時にとても印象に残る言葉は、それぞれ召し出された人々がどういう行動を取ったかと言う説明の言葉です。

 「二人はすぐに網を捨てて従った」「この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った」

 この二つの文章は召し出された弟子たちの取った行動を印象深く描いています。そして、ついついこのストーリーを読む時に、この弟子たちの行動を中心に据えて全体を捉えようとしてしまいがちです。

 しかし、同じように繰り返されるもっと大事な言葉がそれぞれの弟子たちの行動に先立って描かれていることにこそ注意を払う必要があります。

 ここには、イエスが彼らをご覧になったと言うことが二度にわたって記されています。どの弟子を召し出す前にも、イエスがまず目を留め、ご覧になっているという事実が先行しているのです。弟子たちがイエスに目を留め、すべてを捨てて従ったのではありません。イエスが彼らを先ずご覧になったのです。

 イエスが目を注いでいたことに、きっと弟子たちは気がつかなかったことでしょう。しかし、弟子たちが気がついたか気がつかなかったかが問題なのではなく、イエス・キリストが先ずご覧になっているという事実が重要なのです。

 同じように、イエスが彼らを呼ばれたということが、やはり繰り返し描かれています。ペトロとその兄弟アンデレに、イエスは「わたしについて来なさい」とおっしゃいました。同じようにゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネに対しても、イエスは「彼らをお呼びになった」と記されています。

 ここでも、イエス・キリストが先立って行動され、イエスがリーダーシップを取っていらっしゃるのです。

 そうしたイエスの先立つ行動に応答して、弟子たちははじめてその召しに応じることができたのです。

 このことは当たり前のようなことですが、この物語全体にとってとても大切な点なのです。イエス・キリストのリーダーシップをしっかりと見ないで、ただ、直ちに従った弟子たちの行動を賞賛ばかりする読み方では、結局、その人自身が神から召されて従う時に、自分の行動の陰にイエスのリーダーシップを置いてしまうのです。

 もし、弟子たちに関して、模範として学ぶべき点があるとすれば、それは網や舟や父親を捨たという点でもなければ、「すぐに」行動をとったという点でもありません。それらはあくまでもイエスのリーダーシップに自分自身を従わせた結果なのです。大切なことは、わたしたちに先立ってわたしたちに目を注ぎ、わたしたちに先立って召し出してくださるイエスの声に、自分自身を従わせることなのです。イエスはそのようにご自分の弟子となる者に期待しておられるのです