2005年6月30日(木)「地の塩、世の光」 マタイによる福音書 5章13節〜16節

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 味付けの時に使う調味料と言ったら、何を一番最初に思い浮かべるでしょうか。日本人のわたしはお醤油を真っ先に思い浮かべてしまいます。実際、日本人が海外でホームシックになったときの特効薬はお醤油を舐めることだという話を聞いたことがあります。それくらい日本人にとってはお醤油は欠かせないのでしょう。

 しかし、世界的な調味料の標準といえば、お塩の方が上を行くのではないかと思います。国際線に乗れば、食事の時に出てくる調味料は必ずと言っていいくらい塩と胡椒のセットです。

 聖書の世界でも「塩」はいろいろな場面に登場します。例えばヨブ記の6章6節には「味のない物を塩もつけずに食べられようか」という言葉が出てきます。また、聖書には「塩の契約」という特別な言葉もあるくらいですから、調味料としての塩以外にも、塩には重要な役割がありました。

 そして、きょう取り上げようとしている個所には、クリスチャンと塩について語るイエス・キリストの言葉が記されています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 5章13節から16節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。

 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

 先週に引き続き、マタイによる福音書に記された「山上の説教」から取り上げています。きょうの個所では、キリストの弟子たちは「地の塩」「世の光」であると言われています。先週学んだ個所では、「心の貧しい者」や「悲しんでいる者」、「義のために迫害される者」のことが取り上げられていましたが、イエス・キリストはそうした者たちの幸いを説かれたのでした。もちろん、そこで取り上げられている人々は、山上の説教を聞いている聴衆の中にいた実際いた人々なのでしょう。その同じ聴衆に向かって、イエス・キリストはあなたがたは「地の塩」「世の光である」とおっしゃっていらっしゃるのです。悲しむことしかできない人々、迫害されるしかない人々を、イエス・キリストは「地の塩」「世の光」とおっしゃっていらっしゃるのです。もちろん、聴衆の中には「柔和な人々」も「 憐れみ深い人々」も「平和を実現する人々」もいたことでしょう。いかにも「地の塩」「世の光」らしい人々も、そうでない人々も、キリストの弟子であるというだけで、「地の塩」「世の光」であるとイエス・キリストはおっしゃるのです。

 ここで、キリストは「あなたがたは地の塩、世の光となるだろう」と将来のことを言っているのではありません。また「あなたがたは地の塩、世の光であるべきだ」と、あるべき姿のことを言っているのでもありません。「地の塩」「世の光」として今、ここに置かれている厳粛さを受け止める必要があるのです。

 さて、キリストの弟子が「地の塩」であるとは、どういう意味で「地の塩」なのでしょうか。この場合の「地」というのは、その次に出てくる「世の光」の「世」というのと、ほぼ同じ意味と理解してよいでしょう。この世に対してキリストの弟子たちが果たす役割がここでは述べられているのです。

 その一つが「塩」という言葉で象徴される働きです。一般に「塩」が果たす役割は二つあります。最初のところでも引用しましたが、「塩」は味をつける調味料としてもっともよく知られています。先ほど引用したヨブ記の6章6節では「味のない物を塩もつけずに食べられようか。 玉子の白身に味があろうか」と言われています。味気ないむなしいこの世に味付けをするのはキリストの弟子たちであるのです。

 塩が持つもう一つの大切な役割は、腐敗の防止という役割です。塩は昔から腐敗の防止に効果があることが知られています。塩漬けにした食品は保存食として長持ちさせることができます。それと同じようにキリストはその弟子たちに「あなたがたはこの世の腐敗を防ぐ塩だ」とおっしゃっているのです。

 キリストの弟子にはこのような重大な役目が負わされているということに、とても重たいものを感じるかもしれません。自分にはとてもそのような重たい任務を果たす自信がないと思うかもしれません。しかし、もう一度繰り返しますが、キリストは「あなたがたは地の塩になれ」とも「あなたがたは地の塩とならねばならない」ともおっしゃっていないのです。イエス・キリストがあなたがたを地の塩としてお遣わしになり、地の塩として一人一人を立てていてくださっているのです。

 いいかえれば、自分の力を頼みとせず、キリストの恵みに謙虚に信頼するならば、地の塩でいることができるのです。

 けれども、イエス・キリストは弟子たちから塩気がなくなることへの警告もしています。塩がその塩気を失うと言うことは普通は考えられません。しかし、イエス時代の岩塩には不純物が多く、まれに塩としての価値を失ってしまうものもあったそうです。もし、塩がその塩気を失ってしまったならば、何の役にも立たないとキリストはおっしゃいます。外へ捨てるより他はないのです。この警告の言葉もしっかりと受け止めなければなりません。

 この世に対する弟子の働きとして、イエス・キリストはもう一つの比喩でその働きを語っています。「あなたがたは世の光である」とイエス・キリストはおっしゃいます。

 「光」と言うのは「闇」と対照的な言葉です。闇が悪の勢力をあらわすのに対して、光はしばしばそれを駆逐する力を表します。実際、どんな暗闇も一筋の光が入り込むだけで、一瞬にして暗闇ではなくなってしまいます。それで、聖書の中では「神は光である」(1ヨハネ1:5)と言う言葉さえあります。また、イエス・キリストはご自分のことを「わたしは世の光である」ともおっしゃいました(ヨハネ8:12)

 しかし、その神やキリストと同じように、「あなたがたは世の光だ」と言われると、あまりにも重大な責任が両肩にのしかかってくるように感じられるかもしれません。確かにキリストの弟子としてこの世に遣わされる責任は決して軽くはありません。しかし、神が光であり、キリストがこの世の光であるからこそ、その弟子である人々は、その光を反射させることができるのです。しかも、その光を見て栄光をお受けになるのは、天の父なる神様なのです。