2005年9月8日(木)「必要をご存知のお方に祈る」 マタイによる福音書 6章7節〜8節

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 クリスチャンになりたてのかたからよく聞かれる質問の一つに、「どうしてクリスチャン祈るのですか」という質問があります。というのは聖書の中でキリストがこうおっしゃっているからです。

 「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」

 確かに神がわたしたちの必要を祈る前からご存知であるとすれば、どうして祈る必要があるのか、その理由は分かりにくいかもしれません。

 きょうはそのことについて記された個所を取り上げたいと思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 6章7節と8節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」

 先週に引き続き、祈りについてイエス・キリストが教えてくださった個所を取り上げています。この祈りについての個所は、その前後に「施しについて」の教えと「断食について」の教えが記されています。繰り返しになりますが、その三つの教えは人として生きる上で大切なことがらです。そして、その三つを取り上げる時に、イエス・キリストは「偽善者のようであってはならない」ということをキーワードとして教えを展開されました。

 きょうは祈りについての教えの続きですが、イエス・キリストは「偽善者のようであってはならない」ということに加えて「異邦人のようであってはならない」というキーワードも加えています。

 確かに施しの習慣や断食の習慣はすべての民族に共通のものではないかもしれません。ですから、「異邦人のように施してはいけない」とか「異邦人のように断食してはいけない」とはおっしゃられなかったのでしょう。

 けれども、祈りに関してはどんな民族にも祈る気持ちは共通しています。人は誰でも自分の力ではどうしようもできないことがあることを知っています、そういうとき自然と自分の力を超えた何か超自然的な存在に願いを掛け、祈りをささげたりします。どんなに文明が進歩しても、例えば瀕死の人の前では祈るような気持ちで回復を願うものです。

 しかし、祈る気持ちはどんな人間にも共通しているとしても、誰に対して、どのように祈るのかと言うことに関して、イエス・キリストにははっきりとして教えがありました。

 では祈る時に「異邦人のようであってはならない」とはどういうことなのでしょうか。イエス・キリストはこうおっしゃいます。

 「異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。」

 くどくどと述べたり、言葉数を多くしてはいけないということなのでしょうか。言い換えれば長い祈りはいけないということなのでしょうか。

 わたしが牧師になるための勉強をしていた神学生の頃、初めて派遣されていった教会は、戦前からあった歴史のある古い教会でした。礼拝も厳かで、いい意味で重々しさがありました。そして、なんといっても印象的だったのは、礼拝の中で捧げられる牧師の祈りでした。それは良く準備されたとても長い祈りでした。それまでそんなに長い祈りを礼拝の中で聞いたことがなかったわたしには、新鮮な驚きでした。

 もし長い祈りがいけないというのでしたら、それこそもっとも悪い模範をその教会で学んだことになってしまいます。しかし、イエス・キリストがおっしゃりたかったことは「くどくど」とか「言葉数が多い」とかの問題ではありません。そうではなく、「聞き入れられると思い込む」祈りの態度なのです。

 祈りと言うのは、決して神に自分の願いを聞き入れさせるために捧げるものではありません。むしろ反対で、神のみ心がどこにあるのかを学ぶために捧げるものです。自分の必要は自分が一番良く知っていると思い込んでいる人間ですが、祈りを聞き挙げてくださる天の父なる神は、そのわたしたちよりももっとわたしたちの必要をご存知なのです。

 祈るというのは決して神を説得するためであってはならないのです。そうではなく、神の御心を納得し受け止めるために捧げられるべきものなのです。

 もちろん、それは自分の願いを一言も言わずに、ただ「御心がなりますように」と祈る祈りではありません。イエス・キリストは十字架におかかりになる前にゲツセマネの園で祈りました。その祈りはまず「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」という願いでした。何の願いも一言も述べずに、ただ御心がなりますようにと祈ったのではありません。心の内にある願いをしっかりと述べたのです。しかし、キリストはそう願った後で、「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」と祈って、本当の必要、神のみ心がどこにあるのかを知ろうと願ったのです。

 新約聖書の中にある手紙のほとんどを書いたパウロもそうでした。パウロは自分に与えられた刺のために三度主に祈ったとあります。三度というのは三回だけという意味ではないでしょう。聖書の中では三と言う数字は特別な意味がありました。ここでは十分に祈ったということでしょう。この刺がなければ宣教の働きにもっと貢献できたに違いありません。決して自分の幸せのために祈ったというのではないでしょう。祈りの動機も目的も健全であったはずです。しかし、それでもパウロはそう祈った後で、この願いが、ほんとうの必要をご存知である神によってどのように聞き挙げられるのかを、心静かに待ったのです。その答えは、刺を取り去ることではなく、今与えられている神の恵みが十分であるという答えでした(2コリント12:7以下)。パウロはそのことを教えられて、自分にとって何が本当に必要なのかを悟ったのでした。それで、パウロはこういっています。

 「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」

 異邦人のようでない祈り方とは、そういう祈り方なのです。けっして神を説得して自分の願いを聞き入れさせることではありません。自分の願いを捧げ、天の父なる神がご存知であるわたしの必要を教えていただく祈りです。本当の必要を教えていただくために熱心に祈りましょう。