2005年12月8日(木)「清める力を持ったイエス」 マタイによる福音書 8章1節〜4節

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 日本人は世界でも屈指の清潔好きな民族だと思います。除菌、抗菌、消臭を謳った製品が次々に開発され関心が集まっています。トイレ回りのものはもちろんのこと、文具や事務用品にまで抗菌作用を謳った素材が使われるほどです。

 その清潔好きな私たち日本人にもあまり得意でないのは、聖書の中に登場する清さと汚れの区別を理解し、重んじることです。聖書が問題にする汚れは、衛生的な意味での清潔・不潔とは必ずしも一致していないからです。特に旧約聖書のレビ記に登場する清さと汚れの区別は、クリスチャンにとってもその概念を把握することは困難かもしれません。

 ただ一つ確実にいえることは、聖書の中では、神こそがもっとも聖なるお方であるということ、そして、誰であれ聖とされなければ神の御前に近づくことはできないということです。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 8章1節から4節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った。すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。イエスはその人に言われた。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい。」

 今週から再びイエス・キリストがなさった御業について学びます。今まで何週間かにわたってイエス・キリストが教えてくださった山上の説教から学んで来ました。マタイ福音書はこの山上の説教に続いて、イエス・キリストのなさった癒しの御業を三つ続けて書き記します。

 すでに、4章23節でマタイ福音書はイエス・キリストの活動をあらかじめこのように記しています。

 「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」

 イエス・キリストの働きは、神の国の福音を宣教することと病や患いをお癒しになること、と要約しても良いかもしれません。そのようにマタイによる福音書はイエス・キリストのお話し下さった山上の説教を三つの章にわたってまとめて記しました。8章からは病の癒しに関わるお話が続きます。その一番最初に取り上げられるのが、重い皮膚病を煩った一人の人の話です。

 この重い皮膚病が具体的にどんな病であったのか、ということについては、旧約聖書のレビ記13章に詳しく記されています。もっとも、そこを読んだだけで、それが今日のどの病名と一致するのか断定することは困難です。旧約時代には、そして、イエスの時代にもそうでしたが、それを判定するのは祭司の務めでした。祭司は医者として病気を特定し、診断するのが務めではありませんでした。この祭司の働きにとって重要であったのは、その者が「汚れた者」であるか否かを判定することだったのです。言い換えれば、神の御前で礼拝に与れるかどうか、その資格があるかどうかを判定するという重い任務が祭司にはあったのです。そして、この重い皮膚病のために「汚れた者」と一度判定されたならば、その者はモーセの律法の定めに従って次のように暮らさなければならなかったのです。

 「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。」

 きょう取り上げたマタイ福音書に登場する重い皮膚病を患う男は、正にそのような境遇にあった人なのです。この個所を読む上で大切なことは、そのようなレビ記の定めがいかに差別的であるかということを指摘することではありません。この宗教的な汚れから、誰が私たちを解放し、清い神との交わりを可能にして下さるかということなのです。

 レビ記には、どのようにして祭司は汚れからの回復を宣言するかということが記されています。しかし、祭司は汚れが取り除かれたことを宣言はしますが、汚れそのものを取り除く力を持っているわけではありません。一度この病を患ったならば、この地上の誰をも頼りとすることはできないほど絶望的なのです。

 きょうの個所に登場する男は、イエスを見るなり、近寄ってひれ伏したとあります。本来ならば、宿営の外に独り住まなければならない身であり、しかも、人が近づかないように「私は汚れた者」と叫ばなければならないはずの身です。しかし、汚れから解放されたい気持ちは誰にも抑えることはできません。その思いをイエス・キリストに聞いていただこうと、あえて自分から近づいていったのです。

 「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」

 この男の言葉は、決して今思いついた言葉ではなかったでしょう。この人が何年も祈りつづけてきた言葉そのものだったに違いありません。「主の御心ならば、必ず清めていただける」…そう確信し、祈りつづけて来たに違いありません。

 イエスは、この男の願いに答えて「よろしい。清くなれ」とおっしゃいます。「よろしい」と翻訳された言葉は、「私も欲する、私の願いだ」という言葉です。イエス・キリストはわたしたちの汚れを清め、神を礼拝するにふさわしい者としてくださるお方である前に、そのことを望んでいらっしゃるお方なのです。主ご自身が、私たちが清くなることを望んでいらっしゃるのです。それは、ただ口先だけのことではありません。主イエス・キリストはこの人に手を差し伸べ、この人の体に触れたとあります。当時のユダヤ人にとって汚れた人の身体に触れることは忌み嫌われていました。しかし、イエス・キリストは手を差し伸べ、体に触れ、清くなることが主の願いであることを具体的に示してくださったのです。

 キリストこそ私たちを清めることのできるお方です。キリストは私たちが清められることをこころから望んでいらっしゃるのです。このキリストの望んでいらっしゃることをわたしたちの願いとし、この男のように「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と祈りつづけましょう。