2006年1月5日(木)「風も湖も従わせるお方」 マタイによる福音書 8章23節〜27節

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 東京の新宿に高層ビルが立ち並んだ頃、思いもかけないビル風のことが話題になりました。高層ビルの間をすり抜ける風が予想以上に強い風となって歩く人を悩ませてしまったのです。今度は東京の汐留にビル群が建ち並ぶと、海からの風を遮ってしまい、新橋では思いもかけない気温の上昇が観測されたと言われています。

 空気の流れというのは本当に不思議なものです。イエス・キリストも「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない」(ヨハネ3:8)とおっしゃいましたが、ほんとうに風には予測しがたいところがあります。

 イエス・キリストが活動していたガリラヤ湖には地形の関係から時折突風が吹き降ろしてきたと言われています。それは長年ガリラヤ湖で漁をしてきた者にとっても決して慣れることはなかったようです。きょう取り上げる個所には湖で嵐にさいなまされる弟子の姿が描かれています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 8章23節から27節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。イエスは眠っておられた。弟子たちは近寄って起こし、「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言った。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。人々は驚いて、「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言った。

 ここに描かれているのは、イエスに従った弟子たち一行がガリラヤ湖を渡ってガダラ地方に向かうときに起った出来事です。先週は弟子になろうとする者たちの心構えについてイエス・キリストの言葉を学びました。きょうは、イエスに従っていった弟子たちの身の上に起った出来事が描かれます。

 ガリラヤ湖の面積はおよそ170平方キロメートルですから、日本の霞ヶ浦と同じぐらいの面積です。すでに学んだようにペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネはこのガリラヤ湖で漁を営む漁師たちでした。この湖の水面は地中海の水面より200メートルほど低いところにあり、湖の周りの一部が山に接していたために、時折突風に襲われることがあったようです。きょうの個所に出てくる「激しい嵐」というのはそうした突風のことをさしているのでしょう。

 弟子たちの中には漁師をしていた者たちもいたわけですから、こうした湖の天候の急激な変化には詳しかったはずです。しかし、突然吹き荒れる突風のために舟が木の葉のように揺れて波をかぶって沈みそうになれば、さすがの漁師といえども、生きた心地はしません。

 ところが、イエス・キリストはというと、そんな騒ぎの中、「眠っておられた」とあります。イエスのこれまでの働きがどれほど大変なものであったのか、嵐の舟の中でさえ、寝入ってしまうイエスの姿にそのことを思います。しかし、また同時に嵐の中でも眠ることができるイエスの心の平安さが、慌てふためく弟子の姿と対照的に描かれていてとても印象に残ります。

 この眠っておられるイエス・キリストに弟子たちは助けを求めてすがるように言います。

 「主よ、助けてください。おぼれそうです」

 「おぼれそうです」というのは新共同訳聖書の翻訳ですが、原文では「滅んでしまいます」という言葉が使われています。この言葉はもはや何をもってしても助からないほどの絶望的な言葉です。言ってみれば、神からも見捨てられそうな絶望の淵に立っているとでも言わんばかりです。

 そんな弟子たちの叫びに対するイエスの答えはこうでした。

 「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」

 自分の命に危険が迫る時に、だれでも恐怖を覚えることは避けられません。危険から身を守ろうとするのは動物的な本能だからです。しかし、危機的な状況の中で、いつも本能だけがそれに反応して行動を取るのでは、動物と何ら変わるところがありません。

 人間には信仰があり、希望が与えられているはずです。神への信頼があるならば、すべてを御手のうちに治めておられる神を差し置いて、「自分は滅んでしまう」などと勝手な診断を先走りしてくだしてはいけないのです。弟子たちの問題点は希望の光を見失うほどに信仰が薄れていたことです。イエスは弟子たちの信仰の薄さをそのようにご覧になったのです。

 確かに信仰とは自分に対する自信ではありません。自分に対する自信を完全に失ったところに、なお完全な力を持っておられる方にすべてを委ねてより頼むことです。そこで、イエスに従う弟子たちに求められていることは、神への揺らぎない信頼の気持ちなのです。

 もちろん、弟子たちにはイエスが何者であるのか、まだはっきりとした確信がなかったということもあるでしょう。この出来事の結びに記される弟子の驚きの言葉はこういうものでした。

 「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」

 では、いったいこのお方とはどういうお方なのでしょか。風や湖を従わせるお方、つまり、自然をも支配しコントロールできるお方ということなのでしょうか。イエスは悪霊に対する支配はもちろんのこと、自然界においても支配者であるということなのでしょうか。もちろん、そういう意味もあるでしょう。

 しかし、荒ぶる海を静めるということにはもっと特別の意味がありました。創世記は、「闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」という言葉で天地創造の始まりを記しています。その場合の「深淵」という言葉はどんよりと淀んだ深い淵ではなく、泡立つような激しい水の動きがある淵です。神はこの混沌とした世界に秩序ある創造の御業をはじめられたのです。

 また、黙示録の中では、海は神に敵対する獣の住む場所として象徴的に描かれています(黙示録13:1)。ですから、荒ぶる海に対してそれを静める力を持つとは、ただ自然界を支配するという以上の意味がこめられているのです。

 後にパウロがその書簡の中で書いているように、「キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神」なのです(ローマ9:5)。秩序ある世界をもたらし、神に敵対するあらゆるものを力をもって治めることのできるお方なのです。

 このキリストこそがわたしたちの人生の荒波をも静めてくださるお方なのです。