2006年1月12日(木)「苦しめるものからの解放」 マタイによる福音書 8章28節〜34節

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 イエス・キリストがなさった御業の中には、もう少し私たちにもわかるような言葉で説明をしてもらいたくなるような出来事がいくつも出てきます。きょう取り上げようとしている個所もその一つです。しかし、わたしたちの好奇心を満足させることばかりに関心が偏ってしまうと、肝心の大切なポイントを見落としてしまいがちです。特にきょう取り上げようとしている個所には二人の貴い人間がイエスによってその人間性を回復させられた記事が出てきます。この二人にとっては、そのこと自体が中心的な大きな出来事であったはずです。自分たちに好奇の目ではなく、心からの関心を寄せて下さるお方がいたこと、そして、そのお方によって、人間性を回復させていただいたこと、そのことこそ声を大にして伝えたかったに違いありません。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 8章28節から34節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 イエスが向こう岸のガダラ人の地方に着かれると、悪霊に取りつかれた者が二人、墓場から出てイエスのところにやって来た。二人は非常に狂暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであった。突然、彼らは叫んだ。「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか。」はるかかなたで多くの豚の群れがえさをあさっていた。そこで、悪霊どもはイエスに、「我々を追い出すのなら、あの豚の中にやってくれ」と願った。イエスが、「行け」と言われると、悪霊どもは二人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れはみな崖を下って湖になだれ込み、水の中で死んだ。豚飼いたちは逃げ出し、町に行って、悪霊に取りつかれた者のことなど一切を知らせた。すると、町中の者がイエスに会おうとしてやって来た。そして、イエスを見ると、その地方から出て行ってもらいたいと言った。

 イエス・キリストとその弟子たちは、カファルナウムを後にして、湖を反対岸まで渡りました。カファルナウムというのはガリラヤ湖の北西にあるペトロやアンデレたちが生活の場としていた小さな村です。渡っていった先のガダラは、湖の南東方向にある町で、新約聖書の時代にはヘレニズム文化の栄えた町でもありました。すでに紀元前1世紀にはローマの将軍ポンペイウスによってユダヤ人の支配から解放されデカポリスに編入された町でした。のちに出てくる通り、ユダヤ人からは汚れた動物とされた豚を飼育していたほどですから、この町がいかにユダヤ人の宗教生活からはかけ離れた町であったかということです。そういう場所にイエス・キリストは足を踏み入れられたのです。

 そして、最初にイエスたち一行を迎えたのは、二人の人間でした。その二人の人間は、聖書によれば「悪霊に取りつかれた者」だというのです。その人間らしからぬ行状は、第一に、墓場を住処としていたことです。人が生きて活動する場所からわざわざ離れて、死んだ人が葬られる場所で暮らしていたのです。彼らが風変わりな人間だったので、人々が彼らを墓場に追いやったのか、それとも彼らが好んでこの場所を暮らしの場としていたのかはわかりません。

 第二に、この二人の男は「二人は非常に狂暴で、だれもその辺りの道を通れないほどであった」といわれています。もしそのような凶暴な人を見かけたとすれば、誰も彼らとは関わりたくないと思うのは当然でしょう。ただ、町の住民にとっては幸いなことに、彼らは墓場に住んでいたのですから、その道さえ避ければ、それなりに危害を避けることもできたのでしょう。近寄らない、関わらない…それで、ことは済まされてきたのでしょう。

 しかし、この二人の男がもっと悲惨だったのは、イエス・キリストを見て、こう叫んだことでした。

 「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのにここに来て、我々を苦しめるのか。」

 苦しみから人を解放するはずのキリストに対して、関わりを持たないでくれと叫んだのです。自分にとってもっとも必要な救い主を拒んでしまっているのです。そうであればこそ、この二人の人は悪霊にとりつかれているといわれているのでしょう。しかも、この二人にとっては、どこからどこまでが自分たちの発言で、どこからどこまでが悪霊の発言なのか、区別ができないほど悪霊と一体化しているのです。

 このような恐ろしい人であったがために、今まで誰も彼らと関わる人はいなかったのでしょう。しかし、イエス・キリストはそうではありませんでした。この二人の人間にとって最も必要な手を差し伸べられたのです。キリストは人間を苦しめるあらゆるものから、私たちを解き放ってくださるお方なのです。

 さて、この二人の男について言えば、その行状から見て悪霊にとりつかれていると断定されても、だれも大きな異議を唱える人はいなかったことでしょう。しかし、このマルコ福音書が記しているのは、もっと目立たない悪霊の働きです。

 本来ならば、だれもその辺りの道を通れないほどの凶暴な男たちから悪霊が追い出されたのですから、大いにイエスを歓迎するのが当然です。しかし、町の住民たちは、悪霊にとりつかれていたときのこの二人の男とまったく同じことをイエスに願ったのです。この地方から出て行って、自分たちと関わりをもたないようにと。

 悪霊にとりつかれていると聞くと、恐ろしい行状の人間を思い浮かべるかもしれません。そして、最初に登場したあの二人の男こそ、悪霊にとりつかれた人間だと誰もが納得するかもしれません。しかし、救い主であるキリストを必要と感じない鈍い心と魂こそ、悪霊の影響に苦しんでいる人間の姿なのです。

 パウロはエフェソの信徒への手紙2章1節以下でこう述べています。

 「さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。」

 実にイエス・キリストは不従順な者たちの内に今も働く霊から私たちを解放するために来てくださったのです。