2006年2月9日(木)「あなたの信仰があなたを救った」 マタイによる福音書 9章18節〜22節

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 人の人生というのは、決して自分を中心に回っているものではありません。自分の中で自己完結してしまっているものでないのです。いつも、誰かの人生と交差したり、誰かの人生に割り込んだり、逆に誰かの人生に割り込まれたりするものです。

 福音書の中には様々な登場人物描かれています。大抵は一人の人物は一つの物語の中で完結しています。しかし、きょう取り上げようとしている個所は、一人の人の話の中に、もう一人の人物の話が割り込むような形で入ってきます。最初に登場する人物から見れば、まさに邪魔な割り込みとしか思えません。けれども、イエスにとっては、どちらの人物も助けと救いを必要としている大切な相手なのです。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 9章18節から22節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 イエスがこのようなことを話しておられると、ある指導者がそばに来て、ひれ伏して言った。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも一緒だった。すると、そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからである。イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。

 今、お読みした個所は、まだ物語りの途中です。この後に最初の登場人物にかかわるお話が続きます。本来なら、全体をお読みすべきだったのでしょうけれども、まずは割り込む形で入ってきた婦人の話から取り上げようと思い、途中までをお読みしました。

 その婦人は12年もの間、婦人特有の病気を患っていました。12年を長いと感じるか短いと感じるかは人によって違うかも知れませんが、病気が12年間も続いているというのは、本人にとって決してあっという間の12年間ではなかったはずです。マタイによる福音書にはさらりと「そこへ12年間も患って出血が続いている女が近寄って来た」と書き流していますが、同じことを描いたルカによる福音書ではもっとその苦しみが詳細に記されています。

 「ときに、12年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた。」(ルカ8:43)

 ルカによる福音書は長年の病気の苦しみに加えて、その治療のために全財産を使い果たしてしまった苦しみも伝えています。それでもよくならない苦しみが追い討ちをかけています。二重にも三重にも苦しみを味わってきた一人の婦人です。

 もっとも最初に登場する人物にとっては、自分の娘の命が掛かっているのですから、この婦人にどんな事情があったとしても、自分の道に割り込まれることは、決して快いものではなかったはずです。

 さて、この婦人は正面から堂々イエスに近づいてきて、自分を癒して欲しいと言ったのではありませんでした。もちろん、それには訳がありました。旧約聖書に記された律法によれば、そのような病を負った女性は汚れていると考えられていたのです。はたして自分の願いがイエスによって聞き上げていただけるか、不安もあったのでしょう。しかし、みすみすこのチャンスを逃すことも本意ではなかったのでしょう。癒されたい一念でイエスのもとへと、誰にも気がつかれないように近づいてきたのです。

 「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」

 この婦人はそのことを心から信じ、敢えて行動に出たのです。もともと、試せるだけの治療はすべて試してみても、それでも治らなかった病です。藁をもすがる思いとはこのことをいうのでしょう。すべての望みをイエスに託して、この婦人はイエスのもとにやってきたのです。

 果たして、この婦人は願い通りにイエスの服の房に触ることができました。それはこの婦人が望んでいたことであり、強く切望していたことでした。そして、自分の期待通り、イエスの服に触れさえすれば治ることができたのでしょうか。

 マタイによる福音書には、同じ出来事を記した他の福音のように「たちどころに血が止まった」という書き方はされていません。この福音書を読んだ読者は、いったい病気はどうなったのかという興味をはぐらかされてしまいます。

 衣の房に触った結果、この婦人の病気がどうなったのかということよりも、そのとき、イエス・キリストが何とおっしゃったか、そのことにマタイ福音書の関心はあるのです。

 「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

 この物語が、ただ単に病気の癒しを描いた奇跡物語であるとすれば、イエスの着ていた衣に触れた婦人が癒されたということだけを記せば十分であったはずです。しかし、マタイによる福音書にとって重要なのは、単に病気が治ったか治らなかったのかの問題ではないのです。

 この奇跡が信仰によって受け止められた奇跡であるということが重要なのです。イエスの着ている衣が霊験あらたかな布でできていて、触れるものを誰でも自動的に癒してしまう、そういう不意議な衣の話ではないのです。

 奇跡というのは信仰をもって受け止めるべきものなのです。この婦人がイエスというお方にまったき信頼を寄せたことに、大きな意味があるのです。もしこのイエスに対する信頼と信仰がなければ、たとえこの婦人が癒されたとしても、そこからは何も学ぶべきことはないのです。

 むしろ、逆で、イエスに対する信頼と信仰のあるところにこそ、希望があり、平安があるのです。