2006年3月2日(木)「福音の宣教とキリストの心」 マタイによる福音書 9章35節〜38節

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 何故伝道するのですか、という質問に対して、二通りの答えがあるように思います。一つはマタイによる福音書の終わりに出てくる、復活のキリストの言葉です。キリストは弟子たちにこうお命じになりました。

 「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(28:19-20)

 有名な宣教命令の言葉です。その宣教命令をお出しになったイエス・キリストは「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」と聖書に記されています。このキリストの心と同じ心を持たないとすれば、本当の意味での宣教は難しいことになるでしょう。何故伝道するのか、それはそこに飼い主のいない羊が弱り果て、打ちひしがれているからです。

 きょう取り上げようとしている聖書の個所には、新たな転機を迎えようとしているイエス・キリストの宣教活動の様子が描かれています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 9章35節から38節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

 今お読みした個所は、これと非常によく似た言葉が、既に4章23節にも記されています。

 「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。」

 違うのは「ガリラヤ中を回って」なのか、「町や村を残らず回って」なのかの違いです。つまり、4章の23節からきょう取り上げる9章35節までに記された事柄は、イエスの活動の場所は違うとしても、「会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」という言葉で要約できるイエス・キリストの宣教の働きなのです。それはすでに4章23節を学んだ時に取り上げた通り「教えること」「福音を伝えること」「病気を癒すこと」を含む働きです。マタイ福音書の5章から9章の終わりまで、言ってみれば、この構図に従ってイエスの活動の御業をしるしてきたといってもよいくらいです。5章から7章の終わりまでは、いわゆる山上の説教と呼ばれる個所で、そこには言葉による教えと宣教が記されていました。続く8章と9章ではイエス・キリストがなさった数々の癒しの御業が記されて来ました。そうしたキリストの宣教の働きを、9章35節はもう一度「教えること」「福音を伝えること」「病気を癒すこと」という言葉で要約していると見ることができます。

 しかし、それはただ単なる言葉の繰り返しではありません。それは10章で展開される新しい段階への橋渡しの言葉でもあるのです。10章以下では弟子たちが派遣されて、キリストの宣教活動を担います。その新しい展開への必要を描いたのが、9章35節に続く言葉です。

 まず、36節には宣教活動を通してイエスがご覧になったものとイエスの心情が描かれています。

 イエスがご覧になったのは「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」様子です。

 群衆は誰の目の前にもいるのですから、群衆の見えない人は誰もいなかったことでしょう。しかし、その群衆の状態をどう見るのかは、一人一人が持つ心の目で違ってくるのです。

 イエスには目の前の群衆が「飼い主がいない羊」のように見えたのです。実は「飼い主がいない羊」という表現は旧約聖書に出てくる表現です。旧約聖書のエゼキエル書34章には、適切な指導者がいない民衆を飼い主がいない群れに譬えられ、無能で自己中心的な指導者たちを非難されています。

 「それゆえ、牧者たちよ。主の言葉を聞け。わたしは生きている、と主なる神は言われる。まことに、わたしの群れは略奪にさらされ、わたしの群れは牧者がいないため、あらゆる野の獣の餌食になろうとしているのに、わたしの牧者たちは群れを探しもしない。牧者は群れを養わず、自分自身を養っている」(エゼキエル34:7-8)

 イエス・キリストはご自分の前にいる群衆たちをそのように指導者のいない群れのようにご覧になったのです。ただご覧になったのではなく、そのような飼う者のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている民衆を「深く憐れまれた」とあります。

 この「深く憐れまれた」という言葉は新約聖書の中ではごく限られたところにしか出てきません。それははらわたの底から心揺るがされるような深い憐みを表す言葉です。この言葉が使われる12回のうち、そのほとんどはイエス・キリストの心情か、父なる神の心情をあらわすときに使われる言葉です。

 イエス・キリストが神の国の福音を宣べ伝え、多くの病人をお癒しになったのは、この深い憐みの心からです。このイエス・キリストの働きを受け継ぐ教会の宣教の働きも、このキリストが人々をご覧になるのと同じ目と心を持つ必要があるのです。

 さて、このようなイエス・キリストの働きは「収穫は多いが、働き手は少ない」といわれています。具体的にはそのために、次の章では12人の弟子たちが使わされていきます。

 収穫が多いとご覧になったのは主イエス・キリストです。今日、特に日本ではキリスト教の宣教が難しくなってきているといわれています。その宣教の収穫も少ないと嘆きの言葉も聞かれます。しかし、主イエス・キリストがここにいらっしゃったら、きっと飼う者のいない羊の群れを見出すことでしょう。収穫は十分刈り尽くされたとはご覧にならないでしょう。主がご覧になった収穫の多さは、今もなお変わらないのです。

 イエス・キリストはおっしゃいます。

 「だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」

 自分が働き手として立候補せよとも、また、他へ行って働き手を捜して来いともおっしゃいません。働き手は神が備えてくださるからです。それは祈り求めることによって備えられるのです。神はそういう祈りを求めておられるのです。祈り求めることで、自分が働き人として神から遣わされるのかも知れません。他の人をお遣わしになるのかもしれません。ただ、この働き手の不足は、神に求めるところから始まることを覚えなければならないのです。