2006年3月9日(木)「十二人の弟子たち」 マタイによる福音書 10章1節〜4節

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 牧師になるための学校、神学校で学んでいた時のことです。1年目の学びを終えたときと2年目の学びを終えたときに、それぞれ、夏の間の2ヶ月間、訓練のために地方の教会や伝道所に派遣されて行きます。いわゆる夏期伝道と呼ばれていた実習と訓練の期間です。その夏期伝道の時を神学生だったわたしが初めて迎えたときは、イエス・キリストが12人の弟子たちをお選びになって、お遣わしになったことを思い出して、とても心が引き締まる思いがしました。  きょう取り上げようとしている個所は、まさにその個所です。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 10章1節から4節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。」

 今、お読みした個所は、先週学んだ個所から続いている個所です。前回、主イエス・キリストは「収穫は多いが、働き手が少ない」とおっしゃいました。イエス・キリストお一人で神の国を宣べ伝えていた今までとは違う、新しい段階に入ったことが暗示される言葉です。行く先々でキリストがご覧になったのは、魂の牧者を欠いている人々の弱り果てた様子でした。そうした様子をご覧になったイエス・キリストは働き人の数にまさる収穫の多さをご覧になったのです。そこで、イエス・キリストは弟子たちに「収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」と勧めたのでした。それが前回までの話の流れでした。

 さて、働き手を送ってもらうようにと祈ることが勧められていた弟子たちですが、10章に入ると、彼らこそがその働き手としてキリストから召し出されています。

 12人の弟子たちを呼び寄せられたイエス・キリストは。彼らに「汚れた霊に対する権能をお授けになった」とあります。それは彼らが「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった」と記されています。

 今まで学んできたように、イエス・キリストの宣教活動は、「諸会堂で教え、神の国の福音を宣べ伝え、民衆のありとあらゆる病気や患いを癒す」(マタイ4:23、9:35)ことでした。その働きを共に遂行するのですから、汚れた霊に対する権能を授かったことは当然のことと言えるでしょう。しかし、彼らの働きは、もっぱら「あらゆる病気や患いをいやすため」にだけ遣わされたのかというとそうではありません。

 10章全体をよく読めば分かる通り、彼らが遣わされていった場所で最初にすることは「天の国は近づいた」とのメッセージを伝えることでした。「天の国」、つまり「神の国」の到来を告げ知らせること、これが福音を伝える中心のメッセージなのです。

 「あらゆる病気や患いをいやす」ということは、そのメッセージに伴ったしるしです。決してそれだけが一人歩きをするために、弟子たちが遣わされたのではありません。

 後にイエス・キリストは「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(マタイ12:28)とおっしゃいますが、神の国がやってきたといううれしいニュースと、あらゆる病気や患いをいやすこととは、切り離して考えることはできないのです。ですから、弟子たちが遣わされたのも、なんのメッセージも伴わない、ただ不思議な業を行なうためであったのではありません。彼らの使命は神の国が近づいたことを、言葉と業で示すことにあったのです。

 ですから、弟子たちを遣わすイエス・キリストは、あとで、こんな注意を弟子たちにしています。

 「あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい」(10:14)

 ここからも明らかな通り、弟子たちが遣わされて言った目的は、彼らが言葉によって神の国の教えを伝えることにもあったのです。

 さて、ここには遣わされて行った弟子たちの具体的な名前が記されています。このマタイによる福音書の中で12人の弟子たちの名前がすべて挙げられている最初の個所です。個別的には、すでに今まで学んだ個所に名前の上がっている人たちもいます。ペトロとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、徴税人マタイ、以上の五人はこの福音書の読者にはすでに知られている名前です。他の7人はここではじめて名前を知らされる人々です。そして、イスカリオテのユダを除けば、このマタイ福音書の中でそのエピソードを知ることのできる人はほとんどいません。それくらい無名な人々をイエスはご自分の弟子たちに加えられたということです。

 12弟子のリストのうち、2人は称号が名前の上に加えられています。1人は既に学んだ徴税人のマタイです。もう1人は熱心党のシモンです。他の人に関しては特に職業と共に名前がしるされているわけではありません。すでに学んだところから、ペトロやヤコブたちが漁師であったことはこの福音書の読者には知られています。しかし、彼らは漁師ペトロとか漁師ヤコブと紹介されることはありません。

 徴税人マタイと熱心党のシモンだけが、特別な称号付きで紹介されるのには、それだけの理由があるからです。なぜなら、この二人の属しているグループは全く相容れない間柄のグループだからです。徴税人は、ユダヤ人から見れば神を信じない異邦人の手先です。そのすることなすことは泥棒や詐欺師と同じとみなされていましたから、おおよそ神の国からは遠い者たちと考えられていたのです。片や熱心党の人たちは、自分たちこそ神の側につくものと自負する者たちでした。徴税人出身のマタイと熱心党出身のシモンとが同じイエス・キリストの弟子に加えられているというのは、誰が見ても驚きです。そうであればこそ、わざわざ彼らは称号付きで名前が挙げられているのでしょう。

 そういった過去を背負った人たちがキリストによって選びだされ、今や、神の国の収穫を刈り取る働き手として遣わされようとしているのです。