2006年3月30日(木)「恐れるな」 マタイによる福音書 10章26節〜31節

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 迫害のために命を落としたクリスチャンの数は20世紀から今に至るまでの間がもっとも多いということを耳にしたことがあります。ローマ時代の大迫害の事なら耳にしたことがあるでしょう。あるいは日本のキリシタンたちが数多く殉教した話も聞いたことがあるでしょう。しかし、20世紀にもなってから、いったい迫害のために殉教するクリスチャンの数が、今までのどの時代よりも多いということが果たして信じられるでしょうか。

 しかし、それは真実な話なのです。キリスト教信仰を持っているために命の危険にさらされる人たちは、この現代にあっても数が減少するどころか、かつてのどの時代よりも増えているのです。

 いきなり、そんな話を耳にすると、恐くなって信仰など持ちたくなくなってしまうかもしれません。しかし、そうであればこそ、きょう学ぼうとしているイエスの御言葉には耳を傾ける必要が大きいのです。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 10章26節から31節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」

 引き続ききょうの聖書の個所も、十二人の弟子たちを伝道のために遣わそうとしておられる、イエス・キリストの教えです。派遣されていく弟子たちが行き着く場所は決して、自分たちを優しく迎え入れてくれるような場所ではありません。既に学んだように、弟子たちは狼の群れに派遣された羊なのです。

 しかし、イエス・キリストは「人々を恐れてはならない」とおっしゃいます。

 その理由を、先ず第一に「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」とおっしゃいます。

 もし、とりあえず隠しておけるものを隠しておけば、当面、迫害の手を逃れることができるかもしれません。最初からぶつかることが分かっていれば、もう少し様子を見ながら伝道を始めることは大切なことかもしれません。しかし、いつまでも隠しておいたのでは弟子たちを派遣する意味がありません。それに、そもそもキリストが弟子たちの手に託した福音は隠せ通せるような性質の物ではないのです。人々を恐れて隠したとしても、結局は明るみに出てしまうのですから、人々を恐れて隠そうとする努力は無駄なことなのです。

 イエス・キリストはおっしゃいます。

 「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい」

 イエス・キリストは救いの奥義を他の誰でもない、弟子たちにだけ密かに教えられたことが幾度となくありました。今やその教えを多くの人に伝えるために弟子たちは遣わされて行くのです。

 人々を恐れてはならない第二の理由は、人々というのは所詮、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者ども」に過ぎないからです。確かに、体を殺すことができるというのは恐ろしいことです。体を殺される痛みや苦しみに誰もが簡単に耐えられるというわけではないでしょう。しかし、イエス・キリストがここでおっしゃりたいことは、ただ苦痛に耐えて頑張りなさいということではないのです。魂さえも支配しておられる、まことに恐るべき方がいらっしゃるということなのです。恐れるべきものを恐れないで、逆に恐れるに価しないものを恐れて生きていくその結果が、結局自分自身の魂の滅びであるとすれば、その生き方はまことに意味のない生き方なのです。

 イエス・キリストは後に別の機会に弟子たちにこんなことをおっしゃいました。

 「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」(マタイ16:26)

 そこで言われている「命」とは「魂」のことです。人々の顔色を伺いながら、この世にあわせてうまく生き長らえたとしても、まことの命、魂を滅ぼしてしまってはなんにもならないのです。

 福音を語り伝えよとお命じになる方は、体も魂をも生かしも滅ぼすこともできるお方です。人々を恐れるなということは、結局は魂をも支配していらっしゃる方を畏れ敬い従うことなのです。

 ところで、「魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」というのは、いかにも恐ろしい言葉です。確かに、この言葉がもっている重みを薄めてはなりません。しかし、神の言葉を携えて遣わされていく弟子たちは、ただ恐ろしい神の顔を思い浮かべながら、恐怖心で伝道をするのではありません。魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方は、同時にもっとも配慮に満ちたお方でもあられるのです。

 そのお方は十把一絡げで売られているような雀にさえも目を留めていらっしゃる方なのです。人間にとってはどうでもいいような雀です。十把一絡げの雀のうちの一羽が他の雀と入れ替わっていても気にはとめたりしません。その雀の命にさえも神は関わってくださるのです。

 まして愛する弟子たちのために神が無関心でいらっしゃることは絶対にありえないことなのです。確かに弟子たちが遣わされていくところは狼の群れのような場所です。そこでは多くの困難が予想されます。しかし、それは神が無関心だから災いすることなのではないのです。

 弟子たちは小さな雀や髪の毛一本一本にさえも関心をいだかれる神の配慮と愛に守られて伝道の働きに遣わされるのです。だからこそ、恐れることはないのです。そして、だからこそ、愛を注いでくださるお方を第一として歩む事が求められているのです。