2006年5月4日(木)「時代を読めない世の知恵」マタイによる福音書 11章7節〜19節

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 時代を読むというのはどんな分野にとっても、またどんな人にとっても決して簡単なことではありません。その中でも特に、救いの歴史にとって今がどういうときであるのかを見分けることはとても難しいといわざるを得ません。

 しかし、聖書は救いの時代を読むことが絶対に不可能なこととは教えていません。むしろ、神の言葉に注意深く耳を傾けるなら、今の時代を知ることができるのです。人間の余計な知恵がそれを妨げさえしなければ、人は時代を読んでキリストのもとへと来ることができるのです。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 11章7節から19節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ。
 はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである。耳のある者は聞きなさい。
 今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった。』ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」

 きょうの聖書の個所は、獄中にいた洗礼者ヨハネのもとから遣わされてきたヨハネの弟子たちが、イエスの答えを携えて、イエスのもとを去って再びヨハネのところに戻っていったところから始まります。ヨハネの弟子たちが帰っていったあと、イエスは民衆に顔を向けて話をされます。

 まず最初にイエスが語り始めたことは、ヨハネの偉大さについてです。確かに洗礼者ヨハネは投獄され、既にその活動は過去のものになっていたのかも知れません。そして、そのことはヨハネが指し示してきた「来るべきお方」「メシア」についての信頼を失わせたり弱めたりする結果を招きかねません。

 そこで、イエスは洗礼者ヨハネを「預言者以上の者」「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった」と言い切って、民衆たちに洗礼者ヨハネの意義を語り始めます。

 かつて民衆たちはヨルダン川で悔い改めの洗礼を授けていた洗礼者ヨハネのもとへとこぞって訪ねて来ました。それは一体何のためであったのか、とイエス・キリストは民衆に尋ねます。風にそよぐ葦を見に来たわけでもなく、また、王宮に住んでいる王様に会いに来たわけでもないのは分かりきったことです。彼らが会いにわざわざ来たのは、「預言者以上の者」に出会うためだったのです。

 洗礼者ヨハネが「預言者以上の預言者」と呼ばれる理由は、自分自身が預言者によって預言され、救い主メシアの道を備える先駆者だったからです。洗礼者ヨハネは、神の言葉を預かって、民衆に来るべきメシアの到来を告げる点では、正に預言者でした。しかし、彼自身がかつての預言者によって預言されて登場したのですから、ただの預言者とは違っています。しかも、その務めは自分の後からおいでになる方の道を備えるという大きな務めを担っていたのでした。確かに、他の預言者たちもメシアの到来を預言し、メシアの道を備えていたという点では洗礼者ヨハネと同じかもしれません。しかし、洗礼者ヨハネはただ遠い将来のこととして、メシアのことを予言してたのではありません、まさに自分のすぐ後に続いてくるようなメシアの道を備えていたのです。

 さらにイエスは、洗礼者ヨハネについてこうも言ってます。

 「すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。」

 明らかにヨハネはかつての預言者と律法が告げてきたことに終止符を打って、新しい時代を迎える備えをした人物なのです。ヨハネの活動によって、古い時代が幕を閉じ、ヨハネの活動によって新しいメシアの時代が幕を開けようとしているのです。

 けれども、イエス・キリストは「しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」といって、預言者以上の預言者であるヨハネさえも、神の国の秩序の中では決して大いなる者ではないことを証しています。確かにヨハネは新しい時代を告げる先駆者ではありましたが、新しい時代をもたらすメシアそのものではありません。ですから、彼自身は新しい時代に属する人ではないのです。神の国の秩序の中では譲らなければならない地位にあったのです。

 もっとも、イエス・キリストがここで一番に伝えたかったことは、ヨハネが天の国の最も小さな者よりも下であるということではありませんでした。そうではなく、そのヨハネこそが旧約聖書のマラキ書で預言されていた再来のエリヤであったという事実なのです。

 しかし、残念なことに、人々はこの神から遣わされてきた再来のエリヤであるヨハネを見過ごし、さらには、このヨハネが指し示してきたメシアであるイエス・キリストをも拒んでしまっているのです。まるで道端で好き勝手な遊びに興じる子どものように、エリヤのこともイエスのことも、神から遣わされたものとして受け容れることなく、好き勝手にあしらっているということなのです。イエス・キリストはこの時代の責任の重さをそのように指摘なさっているのです。

 人々は自分の好みで、神から遣わされてくる人物のイメージを作り上げ、実際に神から遣わされてくる人物をそのイメージによって適当にあしらってしまっているのです。逆にいえば、自分たちの勝手なイメージを捨てて、聖書の預言にしっかりと耳を傾けた者こそが、救い主であるメシアに出合うことができるのです。その勇気と謙遜差を聖書はわたしたちに求めているのです。