2006年6月22日(木)「言葉は心の中から」 マタイによる福音書 12章33節〜37節

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 言動を慎むようにと言う教えは、どこの文化にも共通する事柄であると思います。聖書の中にも言葉に関する教えがたんくさんしるされています。きょうこれから取りあげようとしている個所には、イエス・キリストがお語りになった心と言葉の問題が記されています。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 12章33節から37節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」

 今お読みしたイエス・キリストの言葉の中に「木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる」とありました。実は同じような言葉は、既にこのマタイによる福音書の7章17に登場しています。

 「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。」

 このマタイによる福音書の7章の言葉は「偽預言者を警戒しなさい」という文脈の中で出てきた言葉です。きょう取り上げている個所はイエス・キリストとファリサイ派との論争という文脈の中で出てくる言葉です。既に学んだように、ファリサイ派の人々はどうやってイエスを殺そうかと相談した人たちでした。そして、このファリサイ派の人々は、イエスが悪霊を追い出しているのを見て、それは悪霊の頭の協力のもとに行なっている業に過ぎないと断定した人々でもありました。同じ奇跡の業を見て、群衆たちは「この人はダビデの子ではないだろうか」つまり「この人こそメシアではないだろうか」と思い始めたのに対して、ファリサイ派の人々はイエスを悪霊の仲間であるとみたのです。こうしたファリサイ派の言動に対して語られたのが、きょう先ほどお読みした個所なのです。
 ここには心と言葉とに関して二つの比喩が語られます。その一つは木とその結ぶ実との関係です。もう一つは倉とそこから出てくる品物の関係です。
 良い実が良い木になるというのは誰もが知っていることです。いえ、良い実がなる木を良い木だと人は判断するのです。これは良い木だけれども、残念ながら悪い実しか結ばない、というようなことはありえないのです。もしそういうことがあるのだとすれば、それは詭弁に過ぎません。
 イエスに対して、殺害の計画を練ったり、暴言をはいたりするファリサイ派の人々は、その言動からして、彼らの本質がどんなものであるのかということは明らかです。彼らの結ぶ実をみれば、どんなに正しい良い木だと自称したとしても、それが偽りであることは隠すことができません。イエス・キリストは彼らファリサイ派の人々に対して「蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか」と問い詰めます。その結ぶ実を見れば「彼らが良い人間である」という定義自体が間違っているのです。どんなに自分を正しい良い木だと言ったとしても、その結ぶ実によってその木がどんなものであるのかは決まってしまうのです。本当は良い木なのに、何かの拍子でたまたま悪い実を結んでしまったという言い訳は成り立たないのです。本質が悪いからこそ、その結ぶ実も悪いものなのです。蝮の子らであるからこそ、良いことなどいえないのです。
 「人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである」とイエス・キリストはおっしゃいます。
 人はしばしば、心にもないことを言ってしまったと言い訳をします。しかし、そうなのではなく、言葉の端々にその人の心が表れているのです。どんなにきれいなことを語っていても、言葉の選び方や表現の仕方にその人の本心があらわれることもあるのです。心からあふれ出てくることを人はそのまま言葉や行いにしているのです。
 ファリサイ派の人々は「『悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない』と言ったのは、つい思ってもいないことを口走ってしまった」などと言い訳することはできないのです。彼らの態度にも言葉にも、まさにファリサイ派の人たちの心が如実に表れているのです。
 悪い人の悪い倉から悪いものしか出てこないように、ファリサイ派の人たちの倉からは良いものが出ようもないのです。
 イエス・キリストはさらにおっしゃいます。

 「言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる」

 この言葉は本当に厳しい言葉です。言葉と心は別物だといいうるならば、だれも自分の語ったことに責任を負わされることはないでしょう。しかし、そうではないのです。自分の話したつまらない言葉についてさえ、それはそもそも倉が悪く、木が悪いと責任を負わされるのです。

 さて、わたしたちは、これらのキリストの言葉をファリサイ派の人々に対する言葉として今まで見てきました。確かに、マタイ福音書の文脈では、そのとおりファリサイ派の人々の言動をイエス・キリストが非難していらっしゃるお言葉です。しかし、このキリストの言葉を他人事として聞いてはいけないのです。キリストの御業に対してわたしたちが語り、行なう言動の一つ一つが終わりの日の審判でその責任を問われることを真摯に受け止めなければならないのです。
 もちろん、わたしたちはその責任を受け止めることができない程に罪深い者です。であればこそ、なおのこと真摯な思いでキリストの救いの御業を、自分への救いの御業として受けとめる事が大切なのです。