2006年7月27日(木)「毒麦の譬え」 マタイによる福音書 13章24節〜30節、36節〜43節

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 キリスト教会が神の御心によって建てられたものであるとするならば、どうしてその教会の中に清く完全な人だけが集わないのでしょうか、こんな疑問を耳にしたことがあります。確かに教会の中は完全な人ばかりとは限りません。不完全な理由の一つには、まだそれが完成に向かう途上にあるからだと説明することができるでしょう。しかし、そういう説明だけでは説明しきれないような不完全さを目にすることがあります。明らかに間違った教えを吹聴して回る人たちや、明らかにキリスト教の生活倫理から外れた人々が、どの時代にも教会の中にいたと言っても良いくらいです。もっとも、それらの間違った教えの人たちに対して、教会が戦ってきたと言うことも事実です。しかし、それでもなお、キリスト教会の中に異分子が入り込んでくるという事実は押し留めることができません。一体神はこのような事態をどうご覧になっていらっしゃるのでしょうか。わたしたちにどのように対処するようにとおっしゃっていらっしゃるのでしょうか。そんな疑問を考える上でヒントになるのが、きょうこれから取上げようとしている譬え話です。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 12章24節から30節と36節から43節までです。新共同訳聖書でお読みいたします。

 イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」

 それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」

 今お読みした譬え話は、前回と同じように、神の国に関わる譬え話です。そして、前回と同じように、譬え話そのものと、その譬え話の解説が主イエス・キリストご自身によってなされている個所です。
 まず、はじめに譬え話そのものを見てみたいと思います。ある人が良い種を畑に蒔いたという話から始まります。前回の譬え話と違って、種が落ちた場所は道端だったり石地だったりしたと言うのではありません。今度はすべて畑の中に落ちた種の話です。時がたつと、こともあろうに、その畑から毒麦が生えてきたと言うのです。もちろん、最初から蒔いた種に毒麦の種が混入していたと言うのではありません。まして僕たちの手入れが悪くて、まともな麦が毒麦に変化したと言うのでもありません。敵がきて毒麦を蒔いていったというのです。もちろん、毒麦の種を蒔かれてしまったということに対して、僕たちに特に落ち度があったというわけではありません。他の農夫と同じように昼間働き夜は休んでいたのです。特に夜に寝ていたことが悪かったとは言われていません。  さて、困った僕たちは今すぐ毒麦を引き抜いてしまうことを提案します。しかし、主人は刈り入れの時まで待つようにと答えます。それは今、毒麦を引き抜こうとすれば、よい麦まで引き抜いてしまって、せっかくの良い麦の収穫さえも危うくしてしまうからです。
 それで、収穫の時まで待って、毒麦を最初に刈り集めて処分してから、良い麦の刈り入れることにしたのです。

 さて、この譬え話はイエス・キリストによってどのように解説されるのでしょうか。前回の譬え話のときと同じように、それぞれの道具立てが説明されます。

 「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。」

 道具立てについての一通りの説明が終わるとイエス・キリストはおっしゃいます。

 「だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。」

 つまり、世の終わりになってはじめて敵が蒔いて行った毒麦について処分が実行に移されるというのです。譬え話の本文ではかなりの部分を占めた「主人と僕の会話」にはほとんど解説がありません。ただ、最後に行なわれることだけが告げられます。つまり、毒麦によって例えられる不法を行なう者たちが、神の国から集めだされて審判を下されるということ、そして、最初に蒔かれった良い麦の種によって示される御国の子らは、何事もなかったように刈り集められるというのです。

 この譬え話の解説から、少なくとも三つのことを学ぶことができると思います。その一つは、良い麦と毒麦が同じ畑に生えていることに関して、悪魔の仕業であったという解説だけで、それ以上踏み込んで解説がないということです。その背景にある悪魔の計画や計画の意図が明らかに解説されるわけではないのです。また、そのような現実が何故許されているのかという解説もありません。このことは人間にとって説明する必要のないことなのです。何故と問うたところで、人間の理解を超えた出来事と言ってよいのです。ただ、神の国の畑に不法を働く者と正しい御国の子らが混在するという事実を事実として受けとめる事が大切なのです。
 第二に、そうした事態に対する対処を今の時点では早急に求められていないということです。良いものを悪いものから完全に分離することはわたしちの力では到底不可能なのです。むしろ、麦自体がもっている成長の力に信頼して、毒麦と共に借り入れのときまで育つままに任せるということです。毒麦を何とかしようとするのではなく、良い麦の成長を願うことです。
 そして最後に、終わりの時に行なわれる神の審判に信頼し期待を抱くと言うことです。この譬え話は最後の結論にこそ重点置かれています。神が定めた分離の時こそ、わたしたちが希望を寄せて今を生きる拠り所なのです。言い換えるならば、終末に対する正しい期待こそが、今を正しく生きるようにわたしたちを導いてくれるのです。