2006年8月3日(木)神の国の進展(マタイによる福音書13:31-35)

 ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

 イエス・キリストが洗礼者ヨハネから洗礼を受け、宣教活動をはじめられたとき、その最初のメッセージとしてキリストが宣べ伝えたことは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」ということでした。「天の国」という表現は、マタイによる福音書の中に出てくる独特の表現で、他の福音書では「神の国」と言われています。今、私たちが学んでいるマタイによる福音書の13章にはキリストが語られた譬え話がたくさん出てきますが、それはすべて「神の国」に関する譬え話ばかりです。そのように、イエス・キリストにとって「神の国」の教えは中心的な事柄でした。きょうも引き続きその神の国の譬え話を取上げて学びたいと思います。

 それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 13章31節から35節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

 イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」
 また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」
 イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「わたしは口を開いてたとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる。」

 きょう学ぶ個所には二つの譬え話が出てきます。この二つの譬え話は、登場する素材は違っていますが、言おうとしていることがらはほとんど同じです。いわば、ペアになった譬え話といってもよいでしょう。
 最初の譬え話にはからし種が登場します。からし種の小ささと、その種が発芽してやがては空の鳥が枝に巣を作るほどの大きさに成長すると言う大小のギャップがこの譬え話のポイントです。  わたしは昔、友人からイスラエルのお土産にからし種をいただいたことがあります。丁度、松葉ボタンの種のような大きさでした。松葉ボタンは地に這いつくばるように広がっていきますが、試しにまいたからし種は、確かに種の大きさからは想像も出来ない大きな木になりました。もっとも、植物学者によれば、イスラエル土産に売られているからし種は聖書時代のからし種とは違うそうです。その議論は植物学者に任せておくことにして、要は蒔いた種と成長した木との大きさのギャップがここでの大切なポイントです。
 ところで、大きな木が枝を這ってそこに鳥が巣を作って安らうというイメージは、大きな力強い国を描く時にしばしば使われた譬えです。例えば、旧約聖書エゼキエル書の31章では強大なエジプトがレバノンの杉木に例えられています。レバノン杉は巨大な木で誰もがその偉大な姿を思い描くことができます。エゼキエルはエジプトの繁栄ぶりをレバノン杉に例えて請う描いています。  「その丈は野のすべての木より高くなり 豊かに注ぐ水のゆえに 大枝は茂り、若枝は伸びた。大枝には空のすべての鳥が巣を作り 若枝の下では野のすべての獣が子を産み 多くの国民が皆、その木陰に住んだ」

 確かに、強大な大国を描くにはレバノン杉のような大木を譬えに引っ張り出した方が説得力がありそうです。しかし、あえて、レバノン杉にではなく、からし種に神の国を例えたところに意味があるのです。

 さて、もう一つの譬え話は、パンを膨らませるイースト菌が取上げられます。小麦粉をいくら練って焼いてももイースト菌がなければパンは膨らまず、カチカチの硬いパンになってしまいます。そのイースト菌ですが、粉全体に対して使う分量と言うのは、驚くほどわずかな分量です。そのわずかな量のイースト菌でパンを膨らませることができると言うのは驚きです。
 もっとも、イースト菌というのは聖書の中では、必ずしも良い意味で引き合いに出されるわけではありません。例えばパウロはコリントの信徒への手紙五章八節以下ででこう言っています。
 「だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。」
 イエス・キリストご自身も「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」(マタイ16:6)とおっしゃって、それを悪い意味に使っています。
 ところが、この譬え話ではあえて悪いイメージのパン種を登場させて、神の国の進展の驚きを伝えているのです。からし種といい、パン種といい、それはあまり人の目を引くものでもなければ、むしろ、かえって悪いイメージさえあるものをあえて引き合いに出しているところに、この譬えの面白さがあるのです。

 イエス・キリストが宣べ伝えている神の国の運動は、その始まりを見れば人の目にはほんとうに小さなもののように映ったことでしょう。わずか十二人の弟子たちしか従えていない小さなグループです。イエス・キリストご自身も、ご自分に従ってくる者たちに「小さな群れよ」(ルカ12:32)と呼びかけていらっしゃるほどです。その当時の誰が、後のキリスト教会の進展を予想することができたでしょうか。じっさい、ユダヤの最高法院であるサンヘドリンの会議では、キリストの弟子たちの活動をやがては熱が冷める小さな運動だと見なしていた様子が使徒言行録五章に伺えます。  もちろん、キリスト教会と神の国とは同じではありませんが、キリスト教会の進展と神の国の進展は重なり合う部分もあります。

 さて、この譬え話の中心点は、始まりと結末の大きさのギャップにあることはたびたび述べましたが、問題はそのような大きな結末が誰の手によってあもたらされるのかと言うことがじつは問題なのです。神の国の進展の力は、実は弟子たちの働きにあるのではありません。つまり、人間の手の力にはよらないところにあるのです。からし種の力が種自身にあるように、またパン種の力がパン自身にあるように、神の国の進展も神の国自身のうちにその力があるのです。  イエス・キリストの時代には、自分の手によって神の国を引き寄せることができるかのように考えていた者たちがいました。ファリサイ派の人たちも熱心党の人たちも結局はそのように考えていたのです。しかし、そのような人間の力に神の国は依存するものでないからこそ、大きな希望を私たちはもつことができるのです。