2006年12月7日(木)犠牲と自由(マタイ17:22-27)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

犠牲を払うということと自由であるということは、厳密には正反対のことではありません。しかし、犠牲を払っている状態でありながら、自由であるということは普通ありえない相反することのように思われます。
けれども、イエス・キリストというお方を見ていると、もっとも多くの犠牲を払いながら、もっとも自由であるお方です。きょう取り上げようとしている箇所にもこの犠牲的でありながら自由であるイエス・キリストの姿が鮮やかに表現されています。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 17章22節から27節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

一行がガリラヤに集まったとき、イエスは言われた。「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。そして殺されるが、三日目に復活する。」弟子たちは非常に悲しんだ。
一行がカファルナウムに来たとき、神殿税を集める者たちがペトロのところに来て、「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」と言った。「納めます」と言った。そして家に入ると、イエスの方から言いだされた。「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。自分の子供たちからか、それともほかの人々からか。」ペトロが「ほかの人々からです」と答えると、イエスは言われた。「では、子供たちは納めなくてよいわけだ。しかし、彼らをつまずかせないようにしよう。湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。」

きょうの箇所は二つの部分から成り立っています。一つはイエスがご自分の苦難と復活を予告される場面です。もう一つは神殿に収める税金に関わるお話です。最初の場面は「一行がガリラヤに集まったとき」のことであると言われています。後の場面は「一行がカファルナウムに来たとき」と言われています。もちろん、カファルナウムはガリラヤ地方の村ですから、どちらも同じ地方での出来事といってしまえばそうなのですが、しかし、この二つの場面は、明らかに別の機会の出来事として描かれています。そして、この二つの出来事は、一見何の脈絡も関連もないように思われます。むしろ、イエスの苦難と復活の予告は、16章で学んだ「ペトロの信仰告白」とそれに続く「苦難の予告」、17章の「山上の変貌」といった一連の出来事の流れの中で捉えた方がよさそうです。つまり、16章でペトロが告白したメシアを、苦難を通してのメシアであるとイエスが教えられたように、山上の変貌で垣間見た栄光のキリストも、同じように苦難を通してのメシアであると言わんばかりに、イエスはここで再びご自分の苦難を語られているのです。
けれども、きょうは連続する二つ場面、苦難と復活を予告されるキリストの場面と神殿に収める税金について語るイエスの場面を、あえて一回で取上げようとしています。それは、一見この二つの話には何の関連も見られないのですが、しかしよく考えてみると、決して何の脈絡もない二つの話とは思えないからです。

少し前置きが長くなってしまいましたが、先ずは「メシアの苦難と復活の予告」について取上げてみましょう。
先ほども触れましたが、イエスがご自分の苦難と復活についてお語りになるのは、これで二度目です。それは山の上でイエスが光り輝く姿をお見せになったことと関係しているように思われます。イエスは確かに栄光に光り輝くお方です。けれども、弟子たちや当時の普通のユダヤ人なら誰でもが思っていたように、最初から最後まで変わることのない栄光に輝く姿ではなかったのです。人々の手に引き渡され、殺され、そして、死を打ち破って復活されるメシアなのです。このイエスの予告の言葉にはイエスが払う犠牲とイエスが勝ち取る死からの自由が告げられています。イエス・キリストは後でもっとあからさまに、ご自分の払う犠牲についてこのように語っています。

「人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(マタイ20:28)

イエス・キリストは最大の犠牲を捧げるお方なのです。しかも、そのことを通して、死者の中から甦り、死という束縛を打ち破られるお方なのです。キリストは復活されるお方なのです。もっとも大きな自由を獲得してくださるお方なのです。

さて、その予告の言葉を語った出来事のあと、神殿に収める税に関わる問題が起ってきます。先ほども指摘したとおり、この二つの出来事には一見、関連性があるとは思えません。イエス・キリストがわざわざ神殿税に関わる話をご自分の受難と復活についての話の後で引き続きしたというものではありません。たまたま、神殿税を集める者たちから質問されて、この話に話題が及んだのです。しかも、神殿税の納税について質問されたのは、イエス・キリスト本人ではなく、弟子のペトロでした。
ペトロは神殿税を集める者たちから、自分たちの先生は神殿税を納めないのかと尋ねられ、「納めます」と答えたのです。
ところで、この神殿税の本来の由来は出エジプト記30章12節以下にこのように記されています。

「あなたがイスラエルの人々の人口を調査して、彼らを登録させるとき、登録に際して、各自は命の代償を主に支払わねばならない。登録することによって彼らに災いがふりかからぬためである。登録が済んだ者はすべて、聖所のシェケルで銀半シェケルを主への献納物として支払う。」

つまり、神殿税が「命の代償」として支払われるということ、そして、その金額は銀半シェケルであったということです。そして、それは災いがふりかからないためであるといわれています。
全く偶然としか思えないつながりですが、身代わりの死を遂げるメシアの苦難と復活の予告の後に、命の代償として支払われる神殿税の話題が登場するのです。
イエス・キリストは罪のないお方ですから、災いが降りかからないために命の代償を支払う必要などなかったことでしょう。
しかも、イエス・キリストご自身がペトロにおっしゃっているように、王の子は納税の義務がないのですから、神の子であるイエスにも神殿への納税の義務はないのです。イエス・キリストはペトロにこうおっしゃいました。

「では、子供たちは納めなくてよいわけだ。」

この言葉は直訳すれば「子供たちは自由だ」という言葉です。イエス・キリストこそまことに自由な神の子なのです。しかし、キリストは律法を廃棄するために来たのではなく、成就するために来られたのです。ご自分が自由であるばかりか、罪の束縛から人々を解放するために、あらゆる犠牲を支払って下さるお方なのです。イエス・キリストは神の子です。しかし、イエスを信じる者も、このイエスの支払ってくださる代償によって自由な身とされるのです。