2007年1月11日(木)結婚と離縁(マタイ19:1-12)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

結婚と離婚の問題は、現代的な問題であるようで、しかし、人間が生存するのと同じくらいに古くからある問題です。男と女がいる限り、この話題に終止符はないようにさえ思われます、
きょうの聖書の箇所もそれを巡るイエスとファリサイ派の学者の論争です。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 19章1節から12節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

「イエスはこれらの言葉を語り終えると、ガリラヤを去り、ヨルダン川の向こう側のユダヤ地方に行かれた。大勢の群衆が従った。イエスはそこで人々の病気をいやされた。
ファリサイ派の人々が近寄り、イエスを試そうとして、『何か理由があれば、夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか』と言った。イエスはお答えになった。『あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。』そして、こうも言われた。『それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。』すると、彼らはイエスに言った。『では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。』イエスは言われた。『あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。』弟子たちは、『夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです』と言った。イエスは言われた。『だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。』」

この箇所を読むに当たって、まず、あらかじめ理解しておかなければならない事柄があります。それは、この箇所が結婚と離婚とにかかわる問題を確かに取り扱ってはいますが、この問題を投げかけてきた質問者であるファリサイ派の人々の意図は、違うところにあったと言うことです。つまり、結婚と離婚についての聖書的な答えをイエスに真面目に尋ねているというわけではないのです。それはただのきっかけで、彼らの意図するところはイエスを試みることでした。イエスを試みて不都合なところを取り立てて、訴えようとしていたのです。真面目な動機から来る質問と言うよりは、イエスを失脚させるための質問であったということです。彼らは「イエスを試そうとして」質問を投げかけたのです。
なにしろ、イエスの先駆者であった洗礼者ヨハネはヘロデ・アンティパスの不当な結婚をあからさまに非難したことが原因で投獄され、ついには首まではねられてしまったのです。同じようにイエスの教える結婚と離婚の教えがヘロデにとって不都合なものであれば、イエスを失脚させることは簡単です。
ですから、イエスの答えも彼らの動機と意図を覆すための最小限のものと考えるべきです。このわずかばかりのイエスの答えから、結婚や離婚についてのイエスの教えを完璧に理解したと思うべきではありません。質問した相手の意図に合わせた答えであるのですから、すべてを包括的に答えているとは限らないのです。しかし、そうではありますが、いくつかの重要なことがらをイエスは語っています。限られた事柄ではありますが、そのことを学び取りたいと思います。

先ずはじめに、ファリサイ派の人々が投げかけてきた質問は、古くからユダヤ教の中でも論争になってきた事柄です。それは離縁の手続きを定めた申命記24章1節以下の解釈にかかわる問題でした。そこには「妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」と記されています。その場合の「何か恥ずべきこと」が具体的に何を指しているのかで、ユダヤ教の中に有名な二つの派閥がありました。一方のラビ・アキバは「何か恥ずべきこと」というのを厳格に捉え、姦通以外の離縁を認めませんでした。それに対してラビ・ヒレルはそれを拡大解釈して、料理を焦がすことさえも「何か恥ずべきこと」のうちに入ると考えていました。もっと後の時代には「気に入らなくなったとき」とは「他に好ましい女性ができたとき」というほどに拡大解釈されて、ほとんどどんな理由ででも離縁が成立してしまう可能性を与える解釈もあったのです。
それに対して、イエス・キリストは何よりも先ず申命記2章から議論をスタートさせる論争から距離をおかれました。離縁を定めた申命記24章から議論をスタートさせてしまうと、どうしてもそこに言われている「何か恥ずべきこと」が何を意味するのか、あるいは「気に入らなくなったら」とはどういうことなのかという枝葉末節の議論にはまってしまいます。そして、物事の本質を見失ってしまうのです。イエス・キリストは彼らのそうした議論を見事にかわしました。
イエス・キリストが8節でおっしゃっているように申命記24章に定められた離縁についての規定は、人間の心が頑なであるための規定です。決して本来の結婚のあり方を示したものではないのです。
そこで、イエス・キリストは申命記24章に代わって、創世記に記された本来の男女のあり方から事柄を説き起こそうとされたのです。

「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」

先ずはじめに、イエスが引用されたのは、創世記の1章でした。そこには男女が平等な存在として神から造られた事が記されています。つまり、神は人間をお造りになったのですが、人間とは男と女であると聖書は宣言しているのです。男も女も人と呼ばれるのです。
しかし、当時の離縁を巡る議論はその平等性を破るものでした。なぜなら、離縁が認められるのは男性の側からだけであって、女性の側から手続きをはじめることは認められていなかったからです。もちろん、イエス・キリストがおっしゃりたかったことは「女性にも離縁の権利を」と言うことではありません。離縁を巡る議論には、いつも性差別の問題が絡んでいるのです。平等な関係であるはずの男女関係が、いつのまにか支配と従属の関係になってしまっているのです。

続いてイエス・キリストは創世記の2章からも引用されました。

「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」

男女の出会い、夫婦の結びつきは人知を超えたものです。地球上の人口の半分は男で残りが女性ですから、選択肢はたくさんあるように見えます。しかし、生涯の伴侶として出会うのは一人です。ですから旧約聖書の箴言も、「男がおとめに向かう道」は「驚くべきこと」「知りえぬこと」と記しています。それは「神が結び合わせてくださったもの」なのです。であればこそ「人は離してはならない」のです。