2007年3月1日(木)ろばに乗った王(マタイ21:1-11)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

国王や国家を象徴するのにふさわしい動物は何かと問われるならば、いったいなんと答えるでしょうか。平凡な答えかもしれませんが、ライオンや鷲のような力強い動物をイメージすることが多いのではないかと思います。国旗や紋章をみても、ライオンや鷲をデザインしたものが数多く見受けられます。それがろばやウサギだったらどうでしょう。なんだか弱々しいというイメージを受けるかもしれません。
さて、きょう取り上げようとしている聖書の箇所には、ろばに乗ったイエス・キリストが登場します。いさましい馬に乗った王が勝利の入城を果たすというイメージからは随分とかけ離れたイメージです。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 21章1節から11節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山沿いのベトファゲに来たとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、言われた。「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつないであり、一緒に子ろばのいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。もし、だれかが何か言ったら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。すぐ渡してくれる。」それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」
弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにし、ろばと子ろばを引いて来て、その上に服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。大勢の群衆が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。
「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
イエスがエルサレムに入られると、都中の者が、「いったい、これはどういう人だ」と言って騒いだ。そこで群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と言った。

先週はエリコの町を後にしたイエス・キリストのことを取りあげました。エリコから西へ20数キロほどいくときょうの話の舞台となるエルサレムの町があります。20数キロと言っても、徒歩で行けば6時間近く掛かる道のりですから、気軽に行き来できるような距離ではありませんでした。
丁度イエス・キリストがエルサレムへ向かわれたのは、過越の祭りのときでした。エルサレムへ向かう人々の数はかなりの数に上ったはずです。エルサレムの町はいつもになく賑やかだったことでしょう。過越の祭りというのは、イスラエル民族にとっては民族解放の記念すべきお祭りです。かつて奴隷として仕えていたエジプトから神の力強い御手によって解放されたことを祝うお祭りですから、とりわけ民族色が色濃く出る時節でもありました。ローマの兵隊たちも不穏な動きがないかと、このときばかりは神経を尖らせていたことでしょう。ユダヤの最高法院であったサンヘドリンの議員たちもエルサレムの都で騒ぎが起ることを懸念していたはずです。
民衆たちの間でも様々期待や不安があったことでしょう。後にこの福音書にもその名前が出てきますが、バラバのように都で暴動を企て殺人まで犯した者までいたほどです。この過越の祭りがどれほど民族的な興奮を呼び起こす機会となるのかがうかがえます。

そんな中、イエス・キリストは都エルサレムに近づくと、二人の弟子を遣わして、ろばを連れてくるようにと命じます。それは預言者ゼカリヤの口を通して預言されたことが成就するためであったと記されています。
ゼカリヤ書9章10節にはこう記されています。

「娘シオンよ、大いに踊れ。 娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。 彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って。」

マタイによる福音書はこのゼカリヤ書の言葉をそのまま引用していますが、ゼカリヤ書の続きにはこう記されています。

「わたしはエフライムから戦車を エルサレムから軍馬を絶つ。 戦いの弓は絶たれ 諸国の民に平和が告げられる。 彼の支配は海から海へ 大河から地の果てにまで及ぶ。」

戦いの馬、「軍馬」に対して、エルサレムに入る王はあえて「ろば」に乗っているのです。高ぶることのない王として、平和をもたらす王として、ろばの背中に乗ってやってこられるのです。
イエス・キリストの取られた行動はただの勝利の王の入城なのではありません。ゼカリヤの預言どおり、高ぶることのない、柔和で平和をもたらす者としてエルサレムへやってこられたのです。
いったい、そこに居合わせた人々の何人がこのイエスの取られた行動を預言者ゼカリやの言葉と重ね合わせて理解することができたのかは分かりません。民族の祭りのムードが高まれば高まるほど、イエスの行動のほんとうの意味は見失われていってしまったことでしょう。
人々は自分たちの服を道に敷き王への尊敬を表しました。どんな期待と思いを込めて民衆はそのような行動に出たのでしょう。人々は木の枝を切って道に敷いたとあります。この木の枝は、ヨハネ福音書の12章によれば「なつめやしの枝」であったと記されています。この「なつめやし」は「棕梠」とも訳されますが、そこからこのイエスのエルサレム入城を記念した日曜日を「棕梠の日曜日」(パームサンデー)と呼ぶ慣わしが生まれました。なつめやしというのは、救いと勝利を象徴する枝で、紀元前142年にエルサレムの要塞が解放されたとき人々がその枝を手にとって勝利を祝ったという由来があります。ですから、民衆のイエスに対する思いが民族的な期待を色濃くを帯びていたことは、そのことからもうかがい知ることができると思います。さらに民衆たちの叫び声が、それに拍車をかけます
「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」

このような背景の中でこそ、あえてろばに乗ってこられたイエスの柔和な姿は特別な意味を持っているのです。
イエス・キリストこそ戦いに終わりをもたらし、まことの平和をもたらすお方なのです。