2007年3月8日(木)祈りと慈しみと賛美の場(マタイ21:12-17)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

教会というものを建物で見ると、キリスト教が全盛期だったヨーロッパのような大聖堂が、どこの国にでもあるというわけではありません。日本にある教会の建物は普通の民家にも見劣りするものがいくらでもあります。まして、ソロモンやキリストの時代のイスラエルの神殿と比べれば、どの教会も見劣りがするのかもしれません。
しかし、教会は建物それ自体ではないことはクリスチャンであれば誰もが知っていることです。事実、初代の教会は特別な建物を持っていたわけではありません。誰かの家で集会がもたれれば、そこは立派な教会だったのです。
それに加えて、パウロはその手紙の中でこう言っています。
「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」(1コリント6:19)
ですから、クリスチャンにとっては建物こそ立派な神殿を持ってはいませんが、クリスチャン自体が神から与えられた神殿なのです。
そういう意味で、きょうこれから取り上げようとしている話は、神殿が存在した昔のイスラエルの話というばかりではありません。わたしたちクリスチャンも注意して耳を傾けるべき話です。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 21章12節から17節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。そして言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた。他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」それから、イエスは彼らと別れ、都を出てベタニアに行き、そこにお泊まりになった。

先週、イエス・キリストがろばに乗ってエルサレムにやって来られた話を学びました。イエス・キリストは王として神の都エルサレムに来られましたが、しかし、軍馬に乗ってやってくる王ではなく、ろばに乗ってやってくる柔和で平和をもたらす王でした。
今週取り上げるところはその続きの箇所です。マタイ福音書はエルサレムにやって来られたイエスが早速神殿の境内に行かれ、宮清めをされたと記します。マルコによる福音書では翌日の出来事として記されている事柄が、あたかも同じ日の出来事のように記されています。ルカによる福音書もマタイ福音書と同じように同じ日の出来事のように記しています。おそらく、マタイもルカも、エルサレム入城の出来事と宮清めの事件を密接な文脈の中におきたかったのでしょう。
この日、イエスのなさったことが三つ記されています。その三つの事柄は、いずれも礼拝の場では何がなされるべきかということを私たちに教えています。

まず初めに、イエスは神殿の境内で売り買いをしている人々を追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛をひっくり返しました。柔和な王としてろばの子の背中に乗ってやってこられた姿とは随分対照的な印象を受けます。
そもそも両替人や鳩を売る者たちが神殿の境内に置かれたのには理由がありました。それは礼拝に来た者たちへの便宜を図るという目的でした。神殿に献げる献金は世俗の通貨ではだめでしたから、どうしても両替商は必要でした。また、遠方から来る者たちにとっては、自宅から犠牲用の動物を連れ立ってくることは大変でしたから、少しでも巡礼者の負担を軽くするためにも犠牲の動物を売る者たちは必要な存在でした。
しかし、それでもイエスは「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである」という聖書の言葉を引用されます。
イエスは何と比較して神殿は「祈りの家」とおっしゃられたのでしょうか。そのすぐ後にイエスは預言者エレミヤの言葉を引用して神殿は「強盗の巣」と化していると非難されます。神殿は強盗の巣ではなく祈りの家であるべきだとおっしゃるイエス・キリストの言葉の背景にはどんなことがあったのでしょうか。
引用されたエレミヤ書はヨシア王の宗教改革の時代を反映しているとされています。ヨシア王は発見された律法の書に従って神殿での礼拝を回復した王様として有名です。その功績は旧約聖書歴代誌にも賞賛されています。しかし、その神殿で浮かれている人々を預言者エレミヤは非難しているのです。神殿、神殿と口にしながら、悔い改めることもなくただ浮かれているだけの人々が神殿を強盗の巣にしていると非難しているのです。
イエス・キリストはそれと同じ状況をここに見たのです。神殿の存在そのものが平安をもたらすのではありません。キリストの時代、ヘロデ大王によって巨大な神殿が再建されていました。イエスの時代にはまだ完成されてはいないほど、巨大でりっぱな神殿でした。しかし、そこが真摯な祈りの家であってこそ、神殿で礼拝する意味があるのです。

第二の出来事は目の見えない人や足の不自由な人たちを癒されたという出来事です。たったの一節に、取ってつけられたように記されているこの出来事の重要性を見逃してはなりません。一つにはイエスご自身がかつて洗礼者ヨハネの使いに語ったように、目の見えない人の目を開き、足の不自由な人の足を立ち直らせるのは、終わりの日のメシアのしるしでした。ですから、この出来事はイエスがメシアであることをはっきりと示す箇所でもあるわけです。しかし、それと同時に、神の神殿でこそ、すべての人は受け容れられるべきだという主張にもなっているのです。旧約時代の律法を文字通りに律儀に守ろうとすれば、神殿の礼拝に参加できる者には制限がありました。動物の犠牲でさえまったきものが求められていたのですから、礼拝する者もまったきものであると考えられていたからです。
しかし、いまやキリストにあってすべての礼拝者は清められ、神の御前にまったき者として受け容れられているのです。そのキリストのいつくしみの業は礼拝の場でこそ引き継がれるべきなのです。

最後に第三の出来事として、子供たちの賛美を受け容れられたイエスの姿が描かれています。神殿の境内で「ダビデの子にホサナ」と叫ぶ子供たちに腹を立てた祭司長や律法学者たちに、イエスはこうおっしゃったのです。
「『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉をまだ読んだことがないのか。」
神殿は誰であれ、神への賛美を捧げる場なのです。それを妨害してはならないのです、