2007年4月5日(木)神の国に入る資格(マタイ22:1-14)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

自分が救われているという確信を持つことは中々難しいことのように思われています。考えても見ればそれは当然のことかもしれません。いったい誰が自分の正しさや清さを神の前で主張することができるでしょうか。胸に手を当てて反省するときに、自分の足りなさをいくつでも数え上げることの方が、むしろ多いでしょう。きょう取り上げるイエス・キリストの譬え話には、誰が神の国に招かれているのか、そして、誰がそれにふさわしい資格を持っているのかが語られています。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 22章1節から14節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

イエスは、また、たとえを用いて語られた。「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」

きょうの譬え話は先週学んだ「ぶどう園と農夫」の譬え話に共通した内容を持っています。それは神の国にかかわる教えであるということと、第一義的にはそれらの譬え話がユダヤ人たちにある種の批判を込めて語られているということです。
きょうの譬え話では、神の国が王子のために開かれる結婚の祝宴に譬えられています。祝宴への招きは三つの段階に分けて描かれていますので、それぞれ順を追って見ていきたいと思います。

まず最初の段階では、王は婚宴の用意が整って来客たちを招きます。しかし、来客たちが来ないために、怒った王が招待を断った者たちを滅ぼしてしまうと言うお話です。
前回学んだ譬え話と同じように、宴会を催す王は神を、招かれても来なかった者たちはユダヤ人を表していることは明らかです。そして、前回の話とは違って、神の国はぶどう園ではなく、結婚の祝宴に譬えられているということです。前回の譬え話ではぶどう園の労働と収穫ということが話の筋書きに出て来ました。そういう意味では、神の国は農夫たちの働きと幾分関係しているように描かれています。しかし、結婚の祝宴は王が一方的に開催するもので、招かれた者たちはただ時が来れば祝宴の会場に行くだけのこととして描かれています。特に何かを準備するというのではなく、むしろ、祝宴そのものを楽しむために招かれているのです。いわば、神の国はこちらの側の準備ではなく、神が用意して招いてくださるものとして描かれているのです。
しかし、最初に招かれた者たちは、祝宴が開かれる時になっても来ません。しかも出席できない理由も決して説得力のあるものではありません。ある者は畑仕事があるからといい、他の者は商売があるからという理由です。もちろん、婚宴の招待が突然来たと言うのではないでしょう。もう前から予定は知らされていたはずです。にもかかわらず、たった一度しかない王子の婚宴と、日にちをずらしてでもできる仕事を天秤にかけて、日常仕事の方を優先させたのです。ですから、それは明らかに王に対する反抗です。
さらに、「他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった」というのですから、王に対する敵意そのものと言わざるを得ません。
イエス・キリストは神の国を宣べ伝え、人々をお招きになっているにもかかわらず、それを断固として受け入れようとしないユダヤ人たちをそのように描いているのです。

第二の段階は、予定していた招待客が来ないと判明したので、代わりの者たちを招こうとするお話です。もちろん、この場合、王が取ることの選択肢は他にもあったことでしょう。婚宴を中止することもできたはずです。あるいは、招待客が誰もいなくとも身内だけで婚宴を開くこともできたでしょう。しかし、王は用意したものが無駄になるよりは、誰彼かまわず祝宴に連れてくるようにと家来たちに命じます。このことはユダヤ人以外の者たちも神の国の喜びに招かれているということを物語っているのです。もはや、イスラエル民族であるから神の国が約束されているとか、ユダヤ人であるから救いが約束されているということではなくなっているのです。かえって、肝心のユダヤ人たちが神の国の福音を拒んだために、誰もが招かれるようになったのです。しかも、善人も悪人も等しく宴会に連れてこられたのです。
こうして神の国に招かれた人たちは、いわば、神の側の一方的な招きによって招かれた人たちです。もちろん、最初に招かれていた人たちが招かれたのも彼らに特別な資格があったからではありません。むしろ、神が資格を与え、彼らを招待したのです。第二の段階で招かれた人たちも優れていたから招待状の第二候補に上がったというわけではありません。それどころか正しい者も正しくない者も招かれているのです。

ところが、第三の段階の話では、招かれた者の中から実際に婚宴に与ることのできる者と、その場から締め出されてしまう者が区別されます。ここで、注意をしなければならないのは、この区別はただ単に正しい者と正しくない者の区別と言うのとは違います。第二の段階で家来たちが集めてきた「善人」と「悪人」というのは、あくまでも人間的な目で判断した「善人」と「悪人」です。家来たちの視点で見た「善人」と「悪人」です。それに対して、第三の段階で区別されるのは王が見た「ふさわしい者」と「ふさわしくない者」の区別です。
王は礼服を着ていない者に目を留め、なぜ礼服を着ていないのかと問いただします。そして、礼服を着ていないものを婚宴から締め出してしまうのです。残念なことに、その礼服が何を意味しており、どのようにして手に入れるべきかと言うことは聖書の中には語られていません。譬え話そのものを素直に読めば、家来たちは「町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて」来たのですから、むしろ、礼服を着ることが出来た人の方が不思議です。となれば、礼服も王によって準備されたものと考えるのが自然でしょう。にもかかわらず、用意された礼服を着なかったのは、その人の落ち度と言うことでしょう。
この譬え話を振り返って、誰が神の国に招かれており、誰が婚宴に与る資格をもっているのかと問うならば、答えは一つしかありません。神がすべてを準備してくださっているのです。神が備えたものを素直に受け取る者だけが神の国の祝宴に与る者なのです。神は祝宴の料理を持参するように求めてはいません。礼服をあつらえてくるようにとも言っていないのです。ただ、神が備えてくださったすべてを受け取る者だけが、救いに与ることのできるものなのです。