2007年4月12日(木)神のものは神に(マタイ22:15-22)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

世の中にはずる賢い罠と言うものがたくさんあります。真面目な質問だと思って答えていくうちに、いつしか揚げ足を取られて自分が失脚してしまうという類のものです。政治の世界ではそうやって権力の座を手に入れていくということは、そんなに珍しいことではありません。むしろ、おとしめるための罠だと気がつかない者に権力を任せておけば、その方が返って危ういことになってしまうのかもしれません。
きょう学ぼうとしている個所にはイエスの揚げ足を取って、失脚させようとする人々の思惑が描かれています。

それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 22章15節から22節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。

イエス・キリストの時代のユダヤ人にとって、ローマ皇帝への納税という問題は、今日わたしたち国民が抱いている納税に対する感覚とはまったく違っていました。わたしたちの時代の納税は、結局は自分の国の必要に対するものですから、その使い道や取立ての配分のあり方に関しては不満があったとしても、納税と言うシステムそのものに反対するということはほとんどいないでしょう。
しかし、キリストの時代のユダヤ人にとっては、異邦人の国であるローマに対して税金を納めるということは、単に民族的な屈辱と言うことだけではありませんでした。それは宗教的な理由でも堪えがたいものがあったのです。
というのは、ユダヤ人にとっては自分たちの国の究極的な王はまことの神であるヤハウェ以外にはいないからです。他の王に税金を納めることは神への裏切りであると感じる人もいたのです。使徒言行録の5章37節には、住民登録の際にガリラヤのユダが民衆を率いて反乱を起こした出来事が言及されていますが、住民登録と言うのは人頭税を取り立てるための基礎になるものです。それに応じることは民族的にも宗教的にも堪えがたいと感じたのでしょう。実はユダヤ人の歴史家ヨセフスによると、このガリラヤ人ユダこそ、後の熱心党の創始者と目される人物です。
しかし、他方では、パレスチナの治安はローマ帝国が存在することで成り立っていると言う面もありました。ユダヤの自治権を委ねられている者たちにとってはローマ帝国とよい関係を保つことで自分たちの民族の存続を図ろうと考える者たちもいたのです。もし、ローマ帝国への納税を拒むならば、自治権はおろか民族の存続さえ危うくなってしまうのです。
この両極端にある意見の対立は、きょうの箇所ではイエス・キリストをおとしめるための格好の材料となったのです。
イエスに対して質問を持ちかけてきたのはファリサイ派の人々でした。その目的は記されているとおり、イエスの言葉じりをとらえて、罠にかけるためでした。そのために普段は自分たちと異なる立場にあったヘロデ派の人々にも声をかけて一緒に行動を取ったのです。その質問とはこう言うものでした。

「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」

もし、ローマ皇帝への納税が聖書の教えに反するので、すべきではない、とイエスが答えたとすれば、これはイエスをローマ皇帝への反逆罪として訴えるいい口実になります。
逆にローマ皇帝への納税を神の教えであるとイエスが認めるとするならば、それは民衆の感情に背くばかりか、王である神をローマ皇帝の権威の下に置いてしまうことになるので、到底認めることのできない教えです。そんな教えを説いて憚らないとすれば、イエスから民衆の支持を奪い取ることは簡単です。

では、この厄介で悪意に満ちた質問にイエス・キリストはどのようにお答えになったのでしょうか。
キリストは納税に納めるデナリオン銀貨を持って来させました。ローマの貨幣には皇帝の肖像と銘が刻まれています。そこでイエスは彼らに尋ねました。

「これは、だれの肖像と銘か」

実は厳格なユダヤ人たちはモーセの十戒の第二戒にある「いかなる像も刻んではならない」という戒めを文字通りに理解していました。ですから、自分たちが鋳造するコインには人間の像を刻まないと言う習慣があったのです。まして、ローマのコインには皇帝が神の子であるという称号が刻まれているのですから、そのようなものを所持していること自体、十戒の第二戒違反を犯しているとになりかねません。そのような偶像は皇帝に返してしまいなさい、と言うのがイエス・キリストの答えです。ローマ皇帝に税金を納めていると考えるのではなく、皇帝の像が刻まれた偶像を返品しているのだと考えれば、自分たちの信仰と少しも矛盾しないのです。こうして、納税の是非の問題に直接触れずに、イエス・キリストは質問者たちの意地悪な質問の意図を上手にかわしたのです。
しかし、イエス・キリストは皇帝への納税の問題を上手にかわしたと言うばかりではありません。そんな意地悪な質問をして困らせようとしている彼らの世界観や生き方そのものを問い正されたのです。キリストはおっしゃいました。

「神のものは神に返しなさい。」

皇帝の像が刻まれたものが皇帝のものであるとするならば、それに対応する神の像が刻まれた神のものとは一体何でしょうか。旧約聖書の創世記に出てくる話をよく知っているユダヤ人たちにとっては、その答えは明らかです。「神はご自分のかたちに似せて人をお造りになった」のです。
そうであれば、神に対して自分自身を捧げる生き方こそが人に求められている務めなのです。皇帝への税金を拒絶して、神を誰よりも敬う敬虔な信徒のように一見見えたとしても、神のかたちに造られた自分自身を神に明渡さない生き方は、本当の敬虔深い生き方ではないのです。イエス・キリストはそのことを一人一人に問い掛けていらっしゃるのです。