2007年5月3日(木)神の子キリスト(マタイ22:41-46)

ご機嫌いかがですか。キリスト改革派教会提供あすへの窓。「聖書を開こう」の時間です。今週もご一緒に聖書のみことばを味わいましょう。木曜日のこの時間は、キリスト改革派教会牧師の山下正雄が担当いたします。どうぞよろしくお願いします。

「救い主」という言葉は、クリスチャンにとってはイエス・キリストご自身のこと以外には考えられません。そして、その救い主の働きの中心は、わたしたちの罪のために十字架の上で身代わりの死を遂げられたこと、しかも、その死の力を打ち破って復活されたこと、そして、そのことが永遠の命を保証する出来事であったということです。
しかし、イエス・キリストが登場する当時のユダヤの世界では、そのような救い主を期待していた者はほとんどいなかったと言っても言い過ぎではありません。もっと民族的な、そしてもっと政治的で軍事的な救い主を期待していたのです。その救い主はかつての偉大な王ダビデにこそ具体的なイメージをもつ存在だったのです。
きょう取り上げる聖書の箇所はそうした救い主のイメージに対してイエス・キリストが真っ向から対立する箇所です。
それでは早速今日の聖書の個所をお読みしましょう。きょうの聖書の個所は新約聖書マタイによる福音書 22章41節から46節です。新共同訳聖書でお読みいたします。

ファリサイ派の人々が集まっていたとき、イエスはお尋ねになった。「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。」彼らが、「ダビデの子です」と言うと、イエスは言われた。「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい、わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と。』このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。」これにはだれ一人、ひと言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった。

きょうの聖書の箇所は、イエス・キリストが投げかけた質問から始まっています。質問の相手は先週学んだ個所にも登場したファリサイ派の人々です。ファリサイ派の人々は聖書の研究をリードする有力なユダヤ教の一派でした。イエス・キリストはその彼らにお尋ねになりました。
「あなたたちはメシアのことをどう思うか。だれの子だろうか。」
ファリサイ派の人々から返ってくる答えは、十分に予想ができたものです。「だれの子か」、つまり「だれの子孫であるのか」と聞かれれば、返ってくる答えは一つしか考えられません。聖書をよく読んでいる者ならば、即座に答えることができるはずです。その期待通り、ファリサイ派の人々は「ダビデの子です」と即答することができたのです。
なぜなら、なぜならその昔、預言者ナタンはダビデにこのように神の約束の言葉を告げたからです。

「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。」(サムエル下7:12-13)

それを受けて預言者イザヤも後にこう預言しています。

「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。 ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。 権威が彼の肩にある。 その名は、『驚くべき指導者、力ある神 永遠の父、平和の君』と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し 平和は絶えることがない。 王国は正義と恵みの業によって 今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。 万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」(イザヤ9:5-6)

考えても見れば、マタイによる福音書の書き出しも、わざわざイエス・キリストの系図を載せて、生まれてくる救い主メシアがアブラハムの子ダビデの子であるお方であることを強調しようとしています。そして、他の福音書よりも数多く「ダビデの子」という言葉を用いているのもマタイによる福音書です。いえ、新約聖書全体を見渡してみても、まるでそのことがメシアであることを証明しているかのように、イエスがダビデの子孫であることがあちこちで証言されています(使徒13:23、ローマ1:3、2テモテ2:8)。

ところが、こんなにも常識と思われてきたことに対して、イエス・キリストは畳み掛けるように質問をします。

「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。…このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。」

そのときイエスが引用されたのはダビデが歌ったと言われている詩編の110編の言葉です。

「主は、わたしの主にお告げになった」…つまり、「主である神がわたしの主であるメシアにお告げになった」とダビデがメシアについて語っているのですから、ダビデにとって主であるメシアはダビデの子であるはずがないという議論です。

もちろん、聖書をよく読んでいるファリサイ派の人々もそうした矛盾を知らなかったわけではありません。そして、その矛盾した表現を説明するのはそれほど難しいことではなかったはずです。ダビデの子孫として生まれたメシアは、やがてダビデ以上の王として世界に君臨するのですから、ダビデはその将来を見越して自分の子孫であるメシアを「わたしの主」と呼んだのだ…こう説明すれば済むはずです。

もちろん、イエス・キリストはそいう答えをファリサイ派の人々が出してくるであろうことは十分に予想していたはずです。そして、ファリサイ派の人々もイエス・キリストがそんな答えを聞き出すために「どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか」などどと聞いいるのではないことぐらい即座に悟ったはずです。

では、イエス・キリストはこのファリサイ派とのやり取りを通して、メシアはだれの子であると主張したいのでしょうか。

そのヒントはイエス・キリストが引用された詩編の110編の言葉にあります。この詩編は新約聖書の中でしばしば引用されます。特にきょうの箇所で引用された部分、つまり神の「右の座に着きなさい」という部分こそ、イエスがいかなるお方であるのかを雄弁に語っているのです。同じこの詩編の言葉はヘブライ人への手紙1章13節で神の子であるイエスの優位性を証明するために引用されています。つまり、神の子イエスは天使などとは違って、神の右に座する特別なお方であるということをこの詩編を引用して証明しているのです。
そして、何よりもイエス・キリストご自身が、審問の席で大祭司から「お前は神の子なのか」と質問された時、あなたがたは「人の子、つまりイエスが神の右に座るのを見る」とおっしゃったのです。そして、その言葉を受けて大祭司はイエスのことを自分を神の子と偽る冒涜者だと決め付けたのです。
つまり、神の右に座るとは、神の子であると言うに等しいのです。
神がお遣わしになったメシアは、単なるダビデ王の再来ではないのです。ダビデのように異邦人の支配を打ち破るお方でもないのです。そうではなく、神の子として遣わされ、罪の支配から世界を解放するお方なのです。